仕事はAIに奪われたのではない
「AIが人間の仕事を奪った」という言い方は、少し違っています。
正確に言えば、仕事を奪ったのはAIそのものではなく、企業や経営者が人間をAIに置き換える判断をしたということです。
その判断は感情や倫理ではなく、「合理的かどうか」で決まります。株主への説明責任、競争の圧力、効率への信頼が背景にあり、「AIを使わないほうが非合理だ」という結論に至ったわけです。AIは雇用を直接奪うのではなく、人間が自分の判断を正当化するための道具として用いられている、とも言えます。
では、誰が決めているのでしょうか。経営者か、株主か、市場か、それともAIか。どれも正しいようで、どれでもないとも言えます。「合理性」という名のもとで動く判断は、誰か一人の意思に還元されずに進みます。AIが経営の中枢に入るほど、この“匿名の意志”は強まって見えます。
合理であることが当然視される社会では、「非合理」は誤りとみなされがちです。その結果、経営は人間の独断というより、AIが算出した最適解を承認する行為に近づいていきます。AIが判断しているように見えて、実際には人間が判断を手放している。AIは鏡のような存在で、そこに映るのは人間自身の合理性なのです。
企業の内部で起きる変化
企業がAIを導入する理由は、生き残りのためです。ただし、その合理的な行動は、企業の形そのものを変化させます。
1937年、経済学者ロナルド・コースは「企業が存在するのは、市場で取引するよりも低いコストで活動を調整できるからだ」と説明しました。この見方は今でも大切です。一方で近年の研究は、AIエージェントが検索・交渉・契約・モニタリングといった取引コストに関わる作業を低コストで担えるようになると、企業と市場のあいだに引かれてきた境界線が動きうることを示しています。NBERの章では次のように述べられています。
「これまで企業の形や市場の仕組みを決めてきた、「社内で行うか、それとも外に委ねるか」という境界が、大きく動いていくでしょう。(we will see significant shifts in the traditional make-or-buy boundaries that define firm organization and market structure.)」
この指摘は必ずしも「企業の消滅」を意味するのではありませんが、境界が再編されうることを意味します。
AIが契約文書を作成し、やり取りを監視し、リスクを調整する。管理や監査、承認や調整といった作業の一部は、エージェント同士の通信で自動化されます。こうした過程で、企業は閉じた組織というよりも、生産や取引を仲介するネットワーク上の接点として機能する度合いが高まります。
AI導入が進むほど、企業の中間層の仕事は不要になると断言することはできませんが、少なくとも役割が変わる可能性があります。たとえば、調整中心のマネジメント業務は、AIの支援で再設計され、人間は判断や監督、関係性の構築に重心を移すことが考えられます。経営トップの勘や経験と、AIによるシミュレーションや推論は競合するのではなく、相互補完的に使われる場面が増えるはずです。合理性を突き詰める過程で、固定的だった企業の境界は、より流動的で開かれた構造へとシフトしていきます。
合理性と変容する企業のかたち
AIの導入は、企業が自らの合理性を磨き込む取り組みでもあります。ただし、合理性を突き詰めるほど、従来の「企業という形」を保つ明確な理由は以前と同じではなくなるかもしれません。これは、企業が消えるという話ではありません。人とAIの分担の仕方が変わることで、企業の中でどの活動を内製し、どの活動を外部のエージェントやプラットフォームに委ねるか、その線引きがずれていくという意味です。
AIは人間を単純に置き換えるのではなく、合理性をテコにして、人間の判断を補完・代替していきます。結果として、企業は“人間が働く場所”というより、“人とAIが一緒に判断し、実行する場”へと少しずつ姿を変えていきます。これは、企業の輪郭が静かに変化し、組織と市場のあいだに新しい連携のかたちが生まれるプロセスです。
企業の「次」をめぐる想像
AIエージェント同士が契約し、調達や取引を自律的に進める仕組みは、すでに一部で現実味を帯びています。APIを前提にしたサービス連携や、モデルやデータを共有する基盤の整備、外部ツールと安全に接続して使うための仕組みなど、エコシステムとしての下地は広がっています。ただし、これらは企業を置き換えるというより、企業の境界の引き方を柔らかくする動きとして捉えるほうが、現時点のエビデンスには近いです。
企業はネットワークの一部としての性格を強め、AIは合理性を扱う実務で重要な役割を担います。AIは企業を壊すのではありません。企業がAIを取り込むことで、企業のかたちが再構成されていくのです。
合理性の行方
AIが仕事を直接奪うのではありません。AIを使うことを“合理的”とみなす社会の仕組みが、仕事のあり方を少しずつ変えています。そして、その連鎖は企業という枠組みの境界線にも影響を与えます。
AIは意思を持ちませんが、人間が委ねた「意志のかたち」を驚くほど正確に映し出します。その鏡に何を映すのかを選ぶのは、これからも私たちです。境界がどう動くのかを丁寧に観察しながら、役割や責任の配分を設計していくことが大切だと思います。