競争からの脱出 —— 非競争的であること

わたしたちは、いったい何を競っているのだろう。
SNSのタイムラインに並ぶ他人の成功、幸福、美しさ。
気がつけば、日常のあらゆる場所で順位づけをおこない、数値で比較している。それらを見るためにリロードをし続けている。

ミメーシス疲労、そして終わりのない競争

人は、他人をまねる生き物だ。
まるで子どもが言葉を覚えるように、誰かの行動を見て学び、そのことを通して世界を知る。
「まねる」というのは、もともと生きるための力だった。
人はまねることによってここまで生き延び、発展してきた。

けれども今、わたしたちはその力、まぬがれられないその欲望に振りまわされている。
SNSを見れば、誰かの成功や幸せ、美しい暮らしが流れてくる。
気づかぬうちに、「自分もそうなりたい」と思ってしまう。
その気持ちは自然なものだが、やがて疲れを生む。
無意識にせよ他者基準でいることによって自分の軸を見失う。

この心の疲れを、ここでは「ミメーシス疲労(模倣の疲労)」と呼ぼう。
他人の欲望をまねしすぎて、自分が本当に何を望んでいたのか、わからなくなるという疲れだ。
そしてそれが蓄積し、誰かのように生きようとすることを続ければ続けるほど、わたしたちの心の奥は空っぽになっていく。

しかも、この「まね」は、すぐに競争をまきおこす。
同じものを欲しがる人が増えれば、取り合いになる。全員獲得することはできないから。
仕事でも、容姿でも、趣味の世界でも。
その結果、わたしたちはいつも誰かと比べ続けてしまう。
負けたくない、遅れたくない、認められたい。
けれど、勝っても満たされることはない。
次の誰かが現れ、また追いかけてしまうからだ。
それらがランキングされ、上位をめざそうとすればするほど「まね」は困難になり、追いかけ続ける時間が増える。しかも、その競争に勝っても、得られるものは曖昧だ。なぜなら、それは本来、自分の内側から自然に生まれるはずの欲望ではなく、他人から借りた欲望だからだ。

終わりのない競争は、わたしたちのエネルギーを静かに奪っていく。

名誉経済と、文化そのものの空洞化

現代の社会では、「名誉」や「人気」そのものがひとつの価値になっている。
いいねの数、フォロワーの数、肩書き、ランキング。
それらは一見、努力の証に見える。
けれど、実際はとても不安定なものだ。
誰かが見ている間だけ、存在している。
視線がなければ存在しない。

名誉や権威は「視線の経済」の上に立っている。
その視線が去れば、すべては消える。
それでも、わたしたちはそこに自分の価値を預けてしまう。

この「名誉経済」は、文化にも影響を与えている。
創作や表現でさえ、「どれだけ注目されるか」で評価されるようになった。
つくられる作品は、深く考え抜かれたものよりも、「すぐに反応が返ってくるもの」へと傾く。
その結果、文化は表面だけが光り、内側が空洞になっていく。
「どれだけ注目されるか」は経済的には意味がある。それにお金を払いたい人が多ければ多いほど儲かるからだ。けれど、それを目指すものばかりではない。世の中には、経済的な価値を目ざさない表現もある。特にこれからの時代はそうだ。働く時間が減り、誰もが創作に時間を使えるようになったとき、貨幣はそれほど意味を持たなくなる。

そもそも本来、芸術や思想は「誰も見ていないところ」で生まれるものだったのではないだろうか。
人の目を意識しない時間の中で、世界と向き合う。自分と向き合う。
その静けさの中から、創造が芽を出す。
いま、その静けさが奪われつつあるようにも感じる。

非競争的であること

では、どうすればこのループから抜け出せるのか。

競争を降りることは、敗北ではない。
それは、「比べる」というプログラムを停止することだ。
その瞬間、世界の見え方が変わる。

たとえば、静かに本を読む。
散歩をする。
言葉を紡ぐ。
絵を描く。
誰に見せるでもなく、なにかをつくる。
そういった時間の中で、ようやく自分の呼吸を取り戻す。
そうした時間を積み重ねるうちに、欲望の源が自分の中にあることに気づく。
他人を模倣することの意味が見えてくる。

非競争的であることは、社会から距離を取ることではない。むしろ、世界と深く関わるための新しい姿勢だ。

他人を打ち負かすためではなく、何かをより深く理解するために動く。
そこに初めて、自由な知性が宿る。
それが、創造の本来の姿なのではないだろうか。

非競争的であること——それは、この過熱した時代を生き抜くための、静かで知的な勇気だ。

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