人生には、うれしいことも苦しいこともあります。ただ、どれだけ大きな出来事があっても、しばらくすると気持ちは「いつもの自分」に近いところへ戻っていくことがあります。こうした傾向を説明する考え方として、「ヘドニックトレッドミル(Hedonic Treadmill)」や「快楽順応(hedonic adaptation)」が知られています。
では、私たちはこの心の仕組みを踏まえたうえで、一時的な快楽だけに頼らない、もう少し長く続く充足をどう捉えればよいのでしょうか。ここを理解すると、自分の気分の動きを読み取りやすくなるだけでなく、社会の側が人々のウェルビーイングを高めるときの考え方にもつながります。
ポイント
快楽順応とは、うれしい出来事があっても、その刺激に慣れていき、幸福感が元の水準に近づいていく傾向のことです。これは多くの人に見られる一般的な特徴として議論されています。
現代社会では、物や情報、他人の成功が目に入りやすく、刺激の量も多いです。その結果、満足の基準が上がりやすく、「もっと」「次は」と追いかけ続ける循環に入りやすい面があります。
ただし、この仕組みを理解できると、個人として行動を工夫しやすくなります。さらに、社会の制度や環境を設計するときにも、短期的な満足だけではなく、生活の質を支える要素に目を向けやすくなります。
ヘドニックトレッドミルの本質:幸福を巡る心のメカニズム
「ヘドニックトレッドミル」という言葉は、努力しても幸福感が一定のところに戻ってしまう感覚を表す比喩として使われます。どれほど良い出来事があっても、その状態に慣れていくことで、最初の高揚感は弱まりやすい、という考え方です。これは「快楽順応」「快楽適応」とも呼ばれます。
この傾向は日常でもわかりやすく現れます。たとえば、欲しかった最新スマートフォンを手に入れた直後は気分が上がりますが、しばらくすると「持っていて当たり前」になり、感動は薄れます。報酬系の働き(新しい刺激や報酬の予測への反応)が関わる説明がされることもありますが、ここでは「新しさに慣れると、同じ刺激では満足しにくくなる」という点を押さえておけば十分です。昇進や昇給でも似たことが起こり、最初の達成感が落ち着くと、次の基準が自然に上がっていくことがあります。
一方で、この「慣れ」は悪いことだけではありません。つらい出来事のあとでも、時間の経過とともに気持ちが少しずつ回復し、日常の中で意味や喜びを見つけ直すことがあります。ヘドニックトレッドミルが「心理的な回復(レジリエンス)」とも関係する、と言われるのはこのためです。
ここで注意したいのは、「必ず元に戻る」と断言できるほど単純ではない点です。出来事の種類やその人の状況によって回復のしかたは変わります。ただ、外部の出来事の影響がずっと同じ強さで続くわけではない、という視点自体は、現実を理解する助けになります。
概念の誕生と実証:幸福のパラドックスを紐解く
ヘドニックトレッドミルという考え方は、1971年に心理学者フィリップ・ブリックマンとドナルド・キャンベルが提起した議論にさかのぼります。ここで重要なのは、これは学術誌の「論文」というより、書籍に収録された章(ブックチャプター)として提示された点です。彼らは、幸福感が絶対的に決まるのではなく、比較や参照点によって相対的に動く、という考えを強調しました。
この話題は、経済成長が進んでも国全体の幸福感がそれに比例して伸びないのではないか、という問題意識とも結びつきます。1974年にリチャード・イースタリンが提示した「イースタリン・パラドックス」として知られる議論は、その代表例です。ここは研究上の論点も多く、結論が一つに固定されているわけではありませんが、「所得や成長だけでは説明しきれない幸福の要素がある」という問題提起として広く参照されてきました。
この分野でよく知られている実証研究の一つが、1978年のブリックマンらの研究です。宝くじ当選者、重い障害を負った事故被害者、比較対象としての一般の人々を比べ、幸福感や日常の出来事の感じ方を調べました。ここで示唆されたのは、非常に大きな出来事があっても、幸福感がそのまま高止まりしたり、逆に永久に落ち込んだままだったりするとは限らない、という点です。記事中の「一年後に回復した」といった断定的な言い方は、研究デザイン上そのまま言い切りにくいので、「時間の経過とともに一定程度の回復や順応が観察されることがある」という表現に整えるのが安全です。
見えざる引力:セットポイントと社会比較の罠
ヘドニックトレッドミルの説明でよく出てくるのが、「幸福度のセットポイント(set point)」という考えです。人には、気分が落ち着きやすい水準があり、良いことや悪いことが起きても、しばらくするとそこへ戻りやすい、という見方です。ただし、この考え方は「完全に固定された点」として理解されると誤解が起きやすく、近年は「ある程度の幅をもつ」「出来事によっては長く影響が残る」ことも含めて議論されています。
遺伝の影響については、双生児研究などで主観的ウェルビーイングの遺伝率が、おおむね2割〜5割程度の範囲で報告されることが多いです。よく「50%」とまとめられますが、研究や指標によって幅があり、数字だけが独り歩きしやすい点には注意が必要です。
そして現代では、セットポイントの話に「社会比較」が強く絡みます。人は他者と比べて自分の状態を評価しやすく、上方比較(自分より良く見える人との比較)は不満や焦りを招きやすい一方、下方比較(自分より大変そうに見える人との比較)は安心感につながることがあります。
たとえば、新しい車を買って満足していても、身近な人がさらに高価な車に乗り換えたのを知ると、満足が薄れることがあります。満足が「絶対値」ではなく「比較」で動くと、基準は上がりやすくなります。
SNSは、この比較を強めやすい環境です。投稿は生活の中でも見栄えの良い部分が集まりやすく、他人の「うまくいっている場面」ばかりが連続して目に入ります。その結果、自分の現状を過小評価して不安になったり、「取り残されている感じ(FOMO)」に近い感覚を抱えたりすることがあります。
一方で、ヘドニックトレッドミル的な順応は、つらい状況から回復する力ともつながります。ここは「比較の罠」と同時に「回復の仕組み」という両面がある、と理解しておくとバランスが取りやすいです。
現代社会の課題:テクノロジーと幸福の閾値
現代は、便利さや選択肢が大きく増えました。それでも幸福感が単純に上がり続けるわけではない、という問題意識が出てきます。ヘドニックトレッドミルの観点から見ると、改善に慣れるスピードも速くなり、満足の基準が上がりやすい環境になっている、と整理できます。
若年層のメンタルヘルスや幸福感の低下をめぐっては、ジーン・トウェンジらが米国のデータを使って、2010年代以降の変化とスマートフォンやスクリーン利用の増加との関連を議論しています。ただし、ここは「因果が確定した」と言い切れる段階ではなく、関連の見え方や解釈について研究者間でも議論があります。記事としては、スマートフォンやSNSが「社会比較」「睡眠の質」「対面交流の減少」などの経路を通じて影響しうる、という可能性として、慎重に書いておくのが無難です。
便利さが増えるほど、少しの不便が強いストレスに感じられることもあります。これは個人の弱さというより、環境側が「慣れ」を加速させる設計になっている面もあります。だからこそ、テクノロジーを全部否定するのではなく、距離の取り方を考えるほうが現実的です。通知を減らす、SNSを見る時間帯を決める、寝る前は触らないなど、刺激の流入をコントロールするだけでも体感は変わります。
持続可能な幸福の探求:OECD指標と社会のウェルビーイング
ヘドニックトレッドミルの視点は、個人の工夫だけでなく、社会の設計にも関係します。GDPのような経済指標だけでは生活の質を捉えきれない、という問題意識から、OECDは「Better Life Index(より良い暮らし指標)」を提供しています。この指標は、住宅、所得と資産、仕事と賃金の質、社会的つながり、知識と技能、環境の質、市民参加、健康、主観的幸福、治安、ワークライフバランスといった複数の領域を扱います。経済の伸びだけでなく、生活を支える条件を広く見ようとする枠組みです。
また、ブータンの「国民総幸福(GNH)」は、経済成長以外の価値を重視する発想としてよく参照されます。これは1970年代初頭に提唱された開発哲学として説明されることが多く、近年も多次元の指標として整備が続いています。
社会としてウェルビーイングを高めるには、個人の努力だけに押しつけない視点が重要です。働き方、教育、医療へのアクセス、格差、地域コミュニティなど、安心感を支える条件は、気分のベースラインそのものに関わります。ヘドニックトレッドミルを理解すると、「刺激を増やす」以外の方向、つまり生活の土台を整え、比較の圧力を弱め、回復しやすい環境を作る、という考え方が見えてきます。
ここまでの話は、「幸福は結局同じだから何をしても無駄」という結論ではありません。むしろ逆で、慣れが起きることを前提にしたほうが、長く効く工夫を選びやすくなります。短期的な高揚感に全振りせず、睡眠や運動のような基礎、他者との関係、学びや創作のような意味のある活動へ比重を置くほうが、結果として安定した充足につながりやすい、という方向性が取りやすくなります。
FAQ
Q: ヘドニックトレッドミルとは、どのような心理現象を指しますか?
A: 大きな成功やうれしい出来事があっても、その幸福感は時間とともに弱まり、元の水準に近づきやすい、という傾向を指す言い方です。
Q: 「快楽順応」と「幸福度のセットポイント」は、ヘドニックトレッドミルとどのように関係していますか?
A: 快楽順応は「慣れ」の仕組みそのもので、セットポイントは「戻りやすい水準」という見方です。良いことがあって気分が上がっても、その上がり幅が時間とともに小さくなり、落ち着く場所へ戻っていきやすい、という説明で使われます。
Q: ヘドニックトレッドミルは、ネガティブな出来事にも当てはまるのでしょうか?
A: 当てはまることがあります。つらい出来事のあとでも、時間の経過とともに順応や回復が起こり、日常の中で意味や喜びを見つけ直す例が報告されています。ただし、出来事の種類や個人差によって回復の形は大きく変わります。
Q: 現代社会において、SNSがヘドニックトレッドミルにどのような影響を与えていますか?
A: SNSは社会比較を強めやすく、満足の基準が上がり続ける方向に働くことがあります。他者の「うまくいっている場面」ばかりが見えると、現状の良さが見えにくくなり、気分が不安定になりやすい面があります。
Q: 宝くじに当たった人が、一時的に幸福感が高まってもやがて元に戻ると記事にありましたが、これはなぜですか?
A: 大きな出来事でも、時間がたつとその状態が日常になり、刺激としての強さが弱まることがあるからです。1978年の研究は、こうした順応の可能性を示唆する例としてよく引用されます。
Q: 持続可能な幸福を追求するために、個人としてどのような行動が有効だと考えられますか?
A: 研究分野では、マインドフルネス、感謝の習慣、利他的行動、睡眠や運動といった生活の基礎が、幸福感の安定に関係しうると議論されています。重要なのは、短期の刺激を増やすより、回復しやすい状態を作る方向に寄せることです。
Q: OECDの「Better Life Index」は、ヘドニックトレッドミルの概念とどのように関連していますか?
A: 経済的な豊かさだけでは幸福を説明しきれない、という問題意識と相性が良いです。Better Life Indexは、所得以外の要素(健康、つながり、環境など)を含めて生活の質を見ようとするため、「刺激や成長だけでは満足が続きにくい」という視点を社会の測り方に反映した取り組みとして位置づけられます。
アクティブリコール
基本理解問題
- ヘドニックトレッドミル(Hedonic Treadmill)とは、幸福感に関してどのような普遍的な心理現象を指す言葉ですか?
答え:どんなに喜びや成功を経験しても、その幸福感は時間とともに弱まり、元の心理状態や幸福の基準に近づきやすいという傾向です。 - 「快楽順応」は、脳が持つどのような能力の一部として理解されていますか?また、その目的は何ですか?
答え:刺激に慣れて反応を調整し、気分の揺れを一定程度おさえる方向に働く仕組みとして説明されることがあります。目的は、外部刺激に振り回されすぎずに日常生活を続けられる状態を保つことだと整理できます。 - 1978年にブリックマンらが実施した、宝くじ当選者と重度の事故被害者の幸福度を比較する研究が示した主な結論は何でしたか?
答え:非常に大きな出来事があっても、幸福感がそのまま固定されるとは限らず、順応や回復が起こりうることが示唆された点です。 - 幸福度のセットポイントに影響を与える要因として、記事中で挙げられているものを3つ挙げてください。
答え:遺伝的要因、性格や気質、初期のライフイベント(ほかに脳の特性や神経伝達物質など)です。
応用問題
- 最新のスマートフォンを手に入れた瞬間の高揚感が数週間で薄れてしまい、さらに新しいモデルが欲しくなったのは、記事中のどのメカニズムによるものと考えられますか?
答え:快楽順応によるものです。新しさに慣れると、同じ刺激では満足しにくくなります。 - 友人の豪華な旅行の投稿をSNSで見た後、自分の休日の過ごし方に物足りなさを感じてしまった場合、記事中で説明されている「社会比較」のどの方向性の影響を受けていると考えられますか?
答え:上方比較です。自分より良く見える他者との比較で、不満や焦りが生まれやすくなります。 - 若年層の幸福度低下の背景として、トウェンジらの研究で議論される要因を2つ挙げ、それがヘドニックトレッドミルとどう関連するか説明してください。
答え:一つはスマートフォンやスクリーン利用の増加です。刺激や比較が増え、満足の基準が上がりやすくなります。もう一つは睡眠の乱れです。回復の土台が弱ると、気分が安定しにくくなり、順応や回復の過程にも影響が出やすくなります。
批判的思考問題
- 記事では、持続可能な幸福のための「行動的介入」がいくつか提案されています。これらの中から、あなたが最も効果的だと考える行動を一つ選び、その理由を説明してください。
答え:(解答例)感謝の実践だと考えます。慣れによって満足が見えにくくなるところを、意識的に補正しやすいからです。 - 記事では、テクノロジーの進化が快適さを増やす一方で、満足の基準が上がり続ける可能性を指摘しています。この指摘について、あなたはどのように考えますか?また、テクノロジーとの健全な付き合い方について、具体的な提案をしてください。
答え:(解答例)便利さが増えるほど、刺激に慣れる速度も上がり、満足が短命になりやすい点は納得できます。提案としては、通知を減らす、SNSを見る時間帯を固定する、就寝前は画面を見ない、といった刺激の流入を制御する工夫が現実的です。 - ヘドニックトレッドミルが「心理的免疫システム」として機能するとはどういうことか、記事の内容を踏まえてあなたの言葉で説明しなさい。
答え:(解答例)つらい出来事のあとでも、時間の経過とともに気分が一定程度回復し、生活を続けられる状態へ戻りやすい仕組みとして働く、という意味です。

小学生のとき真冬の釣り堀に続けて2回落ちたことがあります。釣れた魚の数より落ちた回数の方が多いです。
テクノロジーの発展によってわたしたち個人の創作活動の幅と深さがどういった過程をたどって拡がり、それが世の中にどんな変化をもたらすのか、ということについて興味があって文章を書いています。その延長で個人創作者をサポートする活動をおこなっています。