井上雄彦『バガボンド』は、宮本武蔵を描いた漫画でありながら、最大の山場であるはずの巌流島に到達していない。
普通に考えれば、それは未完であり、欠落である。
宮本武蔵を題材にする以上、読者は最初から結末を知っている。武蔵と佐々木小次郎はいずれ巌流島で戦い、武蔵が勝つ。その有名な決闘へ向かって、物語は進んでいくはずだった。
しかし再読してみると、『バガボンド』が巌流島に到達していないことは、単なる中断や停滞ではないように見えてくる。
むしろこの作品は、描き進められれば描き進められるほど、巌流島を描く必然性を自ら失っていったのではないか。
本稿の仮説はこうである。
『バガボンド』は、巌流島を描けなかったのではない。武蔵と小次郎を真剣に描きすぎた結果、作品自らが巌流島を不要にしてしまったのではないか。
初期の武蔵なら、巌流島へ行けた
序盤の武蔵は、巌流島へ向かう人物として成立している。
彼は荒々しく、未熟で、強さに飢えている。人を斬ることによって、自分の存在を証明しようとしている。そこにあるのは、まだ剣豪漫画として非常に分かりやすい欲望である。
強くなりたい。
天下無双になりたい。
自分より強い者を倒したい。
自分が何者かを証明したい。
この段階の武蔵なら、小次郎と戦うことに違和感はない。強者を求め、強者を斬り、自分の名を上げる。その先に巌流島があるなら、物語は自然に進む。
しかし『バガボンド』は、単純な成長バトルとして進まない。
武蔵は戦いを重ねるうちに、勝つことの意味を疑い始める。人を斬ることの重さを知り始める。天下無双という言葉の空虚さに近づいていく。
この変化そのものは、作品の深まりである。
だが同時に、それは巌流島へ向かうための動機を少しずつ削っていく変化でもある。
雲海と内省は、作品が剣豪漫画から離れ始める兆候だった
その変化は、中盤の内省的な場面にすでに表れている。
たとえば山や雲海を用いた場面では、武蔵の心理がほとんど象徴として描かれる。そこでは具体的な出来事よりも、武蔵の内側にある「天下無双」への執着や、自分がどこへ向かっているのかという迷いが前面に出る。
読者としては、こう感じる部分でもある。
そんなことはもう分かっている。
武蔵が天下無双に取り憑かれていることも、まだ未熟であることも、本当の強さが単なる殺傷能力ではないことも、すでに分かっている。
だから早く話を進めてほしい。
この違和感は自然である。
この時期の『バガボンド』は、物語を前に進めるよりも、武蔵の内面を確認する方向へ傾き始めている。剣豪漫画としての推進力よりも、武蔵が何を見て、何に迷い、何を捨てようとしているのかを描くことが優先されている。
これは、読者から見れば停滞にも見える。
しかし別の角度から見れば、作品が「誰を斬るか」よりも「なぜ斬るのか」「斬った先に何があるのか」へ関心を移している兆候でもある。
この変化は、後の土編へつながる。
そして同時に、巌流島を普通の決戦として描くことを難しくしていく。
小次郎編は、作品を一度救った
武蔵側の内省が重くなっていく中で、佐々木小次郎の登場は作品を一度救っている。
小次郎編に入ると、『バガボンド』は俄然面白くなる。
その理由は、小次郎が武蔵とはまったく違う人物だからである。
武蔵は考える。
小次郎は反応する。
武蔵は言葉に囚われる。
小次郎は言葉の外にいる。
武蔵は天下無双という名を目指す。
小次郎は名の前に身体で世界と触れ合っている。
小次郎編では、作品が再び「身体で読む漫画」になる。説明や内省ではなく、動き、表情、反応、沈黙、音のない世界によって人物が立ち上がる。
この小次郎の造形は、『バガボンド』の大きな成功である。
だが同時に、この成功が後に大きな困難を生む。
なぜなら、小次郎は単なるラスボスではなくなってしまったからである。
小次郎は、武蔵の前に立ちはだかる敵ではない。もう一人の主人公である。しかも彼は、武蔵を敵視する野心家ではない。名声欲に突き動かされる人物でもない。人を支配したい人物でもない。
彼は言葉の外にいる。
剣を通じて世界と触れ合う。
襲われ、巻き込まれ、応じるうちに、剣の道へ入っていく。
井上版の小次郎は、倒すべき敵ではない。
むしろ、理解されるべき存在である。
ここに作品の大きな魅力と、大きな困難がある。
小次郎編は非常に魅力的である。しかし、小次郎をそこまで一人の主人公として描いたことで、巌流島は単なる敵討ちや勝負では済まなくなった。
小次郎が高慢な剣客であれば、武蔵が倒してもよい。小次郎が名誉欲の塊であれば、決闘にも必然性が出る。小次郎が武蔵を殺したがる人物であれば、武蔵が応じる理由も作れる。
だが井上版の小次郎は、そういう人物ではない。
彼は殺されるべき敵ではなく、失われてはいけないもう一人の主人公として立ち上がってしまった。
題字変更は、作品の顔つきが変わったことを示している
『バガボンド』の変化は、物語だけでなく、表紙や題字にも表れている。
途中で題字が変わる。著者名の見え方も変わる。これは単なる装丁上の気分転換ではなく、作品そのものの顔つきが変わったことを示しているように見える。
巻が進むにつれて、『バガボンド』は「勢いで読ませる剣豪漫画」から、「線、余白、沈黙、身体、自然を読む漫画」へ移っていく。
筆の線が強くなり、人物の肉体や老い、汚れ、気配が前面に出る。コマは大きくなり、時間の流れは遅くなる。出来事を追う漫画から、一つの場面を見つめる漫画へ変わっていく。
題字の変更は、その変化と無関係ではないだろう。
作品は、同じ『バガボンド』でありながら、途中から明らかに別の相貌を帯びる。
初期の題字が似合うのは、荒々しい武蔵が走り、斬り、ぶつかっていく物語である。
しかし後期の『バガボンド』は、もはやそれだけではない。剣の物語でありながら、剣の外へ出ようとしている。勝つことではなく、生きることへ向かっている。
題字や表紙の変化は、その作品内部の変質を読者に告げるサインでもある。
この変化は、土編で決定的になる。
土編は、本来なら巌流島の後に来るべき物語だった
『バガボンド』後半の大きな転換点が、いわゆる土編である。
土編で描かれる武蔵は、もはや単純な剣豪漫画の主人公ではない。
彼は斬ることではなく、耕すことを学ぶ。奪うことではなく、育てることに触れる。勝つことではなく、生かされていることを知る。
ここで武蔵は、「強さ」から「生」へ移っていく。
土編が描こうとしているもの自体は明確である。
人を斬ることで自分を証明してきた男が、土に触れ、飢えを知り、村の人間と関わり、命を育てる側へ回る。剣によって世界と関わってきた武蔵が、剣の外にある生を知る。
これは『バガボンド』という作品にとって、非常に重要な主題である。
ただし、巌流島との関係で見ると、土編は非常に緊張をはらんだ配置でもある。
なぜなら土編は、本来なら巌流島の後に置かれるべき性質を持っているからである。
通常の構造であれば、順番はこうなる。
武蔵が剣を極める。
小次郎と戦う。
勝つ。
しかし勝利では何も救われない。
その後で土へ降りる。
生きることを学ぶ。
この順番なら、土編は非常に自然である。
巌流島の勝利によって武蔵が完成するのではなく、勝利の後の空虚によって、武蔵が剣の外へ向かう。土編は「決戦後の武蔵」の物語として機能する。
しかし実際の『バガボンド』では、土編が巌流島の前に来ている。
その結果、武蔵は決戦前に、すでに決戦後の人間になってしまったように見える。
土編は武蔵を「小次郎を殺せない人間」に近づけた
土編を経た武蔵は、自分の強さを証明するために人を殺す人物ではなくなっていく。
命は自分一人のものではない。
人は自然に生かされている。
殺すことは完成ではない。
勝つことは答えではない。
ここまで来た武蔵が、なお自分のために小次郎へ試合を申し込むだろうか。
読者は問わざるを得なくなる。
もちろん、武蔵が完全に剣を捨てたわけではない。彼の中に剣の因縁は残っている。名も残っている。外の世界との関係も切れていない。
それでも、土編後の武蔵が「天下無双を証明するため」に小次郎を斬りに行くことは、もはや人物の成長と噛み合いにくい。
土編は武蔵を深めた。
しかし同時に、武蔵から巌流島へ向かう素朴な動機を奪っていく。
この時点で、巌流島は剣豪漫画のクライマックスではなくなっている。もし描くなら、それは勝利の場ではなく、喪失の場になるしかない。
二人主人公化によって、巌流島は「決戦」ではなく「喪失」になる
武蔵と小次郎が単なる敵同士なら、巌流島は決戦になる。
読者は、ついに来たか、と思う。
武蔵と小次郎が戦う。
武蔵が勝つ。
物語が閉じる。
しかし『バガボンド』では、そう単純にはならない。
武蔵は、殺すことで自分を証明する段階を超えている。
小次郎は、殺されるべき敵ではない。
この二人が戦うなら、それは勝利の場にはならない。
読者が受け取るのは、おそらく達成感ではない。喪失感である。
仮に巌流島が描かれても、そこにあるのは「ついに武蔵が勝った」という快感ではないだろう。
むしろ、「なぜこの二人が殺し合わなければならなかったのか」という痛みである。
二人の主人公のうち、片方が失われる。武蔵は勝っても何も得ない。読者は決着よりも喪失を受け取る。
つまり井上版の巌流島は、描けば描くほど、剣豪漫画のクライマックスから遠ざかる。
土編は失敗だったのか
では、土編は失敗だったのか。
単純にそうは言い切れない。
なぜなら、土編によって『バガボンド』は単なる剣豪漫画を超えたからである。
武蔵が何を斬るかではなく、武蔵がどう生きるか。
誰に勝つかではなく、人は何によって生かされているか。
そこまで描いたからこそ、この作品は特異な強度を持った。
一方で、物語構造として見れば、土編は巌流島との関係において決定的な緊張を生んでいる。
土編は本来、巌流島後の武蔵を描くべき主題だったのではないか。しかしそれを巌流島前に描いたことで、武蔵は決戦前に決戦後の境地へ近づいてしまった。
土編は武蔵を成熟させた。
だが成熟した武蔵を見れば見るほど、読者は問わざるを得なくなる。彼はなお、小次郎を殺しに行くのだろうか、と。
その意味で土編は、作品の核心であり、同時に巌流島を不要にしてしまった章でもある。
未完は単なる中断ではなく、作品の矛盾の露出である
『バガボンド』が未完である理由を、作者の事情だけで説明することはできない。
もちろん、連載上の事情、体力、制作環境、創作意欲など、外部要因はあるだろう。作者本人の事情を作品だけから断定することはできない。
しかし作品内部だけを見ても、この漫画は終わりにくい地点まで来ていた。
巌流島を描かなければ、宮本武蔵物語として未完になる。
巌流島を普通に描けば、作品の主題を裏切る。
巌流島を喪失として描けば、読者が待っていた決戦の快楽を裏切る。
どの道を選んでも難しい。
だから『バガボンド』は、未完であることによって、むしろその矛盾を保存しているとも言える。
未完とは、ただ物語が途中で止まっていることではない。
この作品の場合、未完であることによって、「この二人は本当に戦うべきだったのか」という問いが閉じずに残り続けている。
それでも巌流島は描けたのではないか
もちろん、反論はある。
巌流島は殺し合いではなく、剣による交感として描けたのではないか。
武蔵は私欲ではなく、縁として小次郎と向き合えたのではないか。
小次郎は悪意ではなく、剣を通じて武蔵に触れようとしたのではないか。
この方向なら、巌流島は成立する可能性がある。
だが、その場合でも決戦は勝利の物語にはならない。二人が剣を通じて出会い、互いを完成させるとしても、そこには必ず喪失が残る。
それは、読者が長く待っていた「武蔵対小次郎」の快楽とはかなり違うものになる。
もし描くなら、それは剣豪漫画の頂点ではなく、剣豪漫画そのものの終わりとして描かれなければならない。
その難度は非常に高い。
少しでも誤れば、観念的になる。美化された殺人にも見える。あるいは、長年待たせた読者に対して、決戦の快楽を与えない肩透かしにも見える。
だからこそ、巌流島は描きにくい。
『バガボンド』は巌流島を不要にしてしまった
『バガボンド』は、巌流島へ向かう物語として始まった。
しかし井上雄彦は、武蔵と小次郎を単なる剣豪としてではなく、それぞれ独立した生の形を持つ主人公として描いた。
その結果、土編は武蔵を小次郎を殺せない人間に近づけた。
小次郎編は、小次郎を武蔵に殺されてはいけない人間として立ち上げた。
巌流島は、作品外では避けられない。
しかし作品内では、もはや起こりにくい。
だから『バガボンド』は、巌流島を描けなかったのではない。
巌流島を不要にしてしまったのだ。
そしてその未完性こそが、この作品を再読に耐えるものにしている。
読者は今も考え続ける。
この二人は本当に戦うべきだったのか。
もし戦ったとして、そこに何が残ったのか。
武蔵が小次郎を斬ったとして、それは本当に武蔵の完成だったのか。
おそらく残るのは、勝利ではない。
喪失である。
だから『バガボンド』の未完は、単なる欠落ではない。作品が自分自身の主題に忠実であろうとした結果、予定された結末に戻れなくなった痕跡である。
(了)
深水英一郎

小学生のとき真冬の釣り堀に続けて2回落ちたことがあります。釣れた魚の数より落ちた回数の方が多いです。
テクノロジーの発展によってわたしたち個人の創作活動の幅と深さがどういった過程をたどって拡がり、それが世の中にどんな変化をもたらすのか、ということについて興味があって文章を書いています。その延長で個人創作者をサポートする活動をおこなっています。