欲望というのは、たいてい他人の影を映している。
日々の暮らしのなかで「欲しい」と感じるものの多くは、誰かが欲しがっているものだ。SNSで流れてくる新製品、街の広告、口コミ、ランキング——あらゆる場所が、他人の欲望の光に満ちている。そのまばゆいきらめきを受けながら、私たちは自分の欲望がその影にかくれてしまっていることに気づく。
自分が本当に欲しているものは、そんな強い光の中ではとてもみつけにくい。
それは、あまりにも微かで儚い。他人の欲望が去ったあとわずかに響く残響のようなものだから。たとえば音楽が華やかに終わった瞬間、ホールに漂う余韻。残響とは静寂がなければ成立しないが静寂そのものではない。わたしたちの本音が姿を現すのはそういった瞬間だ。
自分が本当に何を求めているのかを知ることは難しい。
なぜなら、常に「他人が欲しがっているものを自分も欲しい」という巨大な力が、それを覆い隠してしまうからだ。
人間は普段、そこに縛り付けられていて、なかなか逃げ出すことはできない。
今、この時代、その力はいっそう増幅されている。
SNSを開けば、誰が何を買い、どんな体験をし、どんな言葉に反応したのかが絶え間なく流れ込んでくる。アルゴリズムはその膨大な欲望のデータを解析し、私たちが“次に欲しがりそうなもの”を提示する。
もはや私たちは、他人の欲望のなかでかろうじて呼吸しているにすぎない。
そんななかで「自分の欲望」だけをみつけ出すのは、非常に難しい。
かといって、他人の欲望を拒絶することはむずかしい。むしろ、それを意識的に観察することによって本当に自分が欲しいものをみつけだすしかない。
「いま自分が欲しいと思っているものは、他人のどんな欲望を反映しているのか」。
それを探求することは欲望の源(ルーツ)を巡るということかもしれない。そう問い続けることで、自分の輪郭が見えてくる。
自分の中から他人の欲望を引き算して残るもの——それは、無数の他人との関係を意識した上で、それでもなお残る「自分だけの基準」だ。
欲望の源(ルーツ)がみえてくるとき、人はようやく、模倣し模倣される存在から、模倣を観察する存在へと変わることができる。
誰しも誰かの欲望に巻き込まれることからまぬがれることはできない。だが誰かの欲望に巻き込まれながらも、その力を意識して観察できるとき、人はようやく自分自身の欲しかったものが見えてくる。