多元的無知はどのように生まれるのか——存在しない多数派に従う人々 (連載:多元的無知はなぜ発生するのか #01)

「多元的無知はなぜ発生するのか」という連載の第1回です。誰も望んでいない常識を、なぜみんなが守ろうとするのか、考えます

Xで、浴衣の襟合わせを逆にしている人を見かけた、という投稿が流れてきた。

投稿者は、その人に声をかけるべきか迷ったという。和装では通常、着る本人から見て右側の身頃を先に体へ沿わせ、その上に左側の身頃を重ねる。これが逆になっていると、伝統的な死装束と同じ襟合わせになるとされている。

とはいえ、見知らぬ人へ突然話しかければ、「着物警察」のように思われるかもしれない。自分では襟を直してあげることもできない。それでも、もし相手がデート中だったら、後になって間違いを知り、恥ずかしい思いをするかもしれない。

投稿者はそう考え、相手へ声をかけた。そしてXでも、浴衣を着るなら襟合わせだけは覚えておいてほしい、と注意を呼びかけていた。

一見すると、親切な話である。

しかし、ここには一つ奇妙な点がある。

そもそも、その人は何を恥じるのだろうか。

襟の重なりが逆になったところで、衣服として使えなくなるわけではない。保温性が著しく損なわれるわけでも、歩けなくなるわけでもない。倫理的な被害を受ける人もいない。

死者の着物と同じ合わせ方だと言われても、現代の死者が全員和服を着るわけではない。洋服を着て納棺される人もいるが、だからといって生者が洋服の前合わせを死者と逆にしなければならないとは、誰も考えない。

それでも、襟合わせを間違えると「恥をかく」とされる。

なぜ恥ずかしいのか。

多くの人が、それを恥ずかしいと考えているからだろうか。

それとも、多くの人が「自分は別に気にしないが、ほかの人は気にするだろう」と考えているだけなのだろうか。

もし後者なら、そこには実際には存在しない「世間の意思」が生まれている。

このように、集団の構成員がそれぞれ他人の考えを誤認し、その誤認に基づいて行動する現象を、社会心理学では「多元的無知」と呼ぶ。

自分の考えと、他人についての推測

多元的無知という言葉は、少し分かりにくい。

「多くの人が何かを知らない」という意味に見えるが、単なる知識不足ではない。

問題になっているのは、他人の内心についての誤解である。

たとえば、ある人が次のように考えているとする。

私は、浴衣の襟合わせなど、本人が気にしていなければどちらでもよいと思う。
しかし、世間の多くの人は、逆の襟合わせを非常識だと思うだろう。

最初の文は、自分自身の評価である。

二つ目の文は、他人の評価についての推測である。

この二つは別のものだ。

ところが、人間の行動は、自分自身の評価よりも、他人の評価についての推測によって決まることがある。

自分はどちらでもよいと思っていても、周囲が問題視すると思えば、慣習どおりに着る。逆に着ている人を見かければ、その人が恥をかかないよう教えてあげようとする。

その行動を見た別の人は、こう考える。

あの人は、襟合わせを重要な問題だと思っているらしい。

だが実際には、その人自身も強く問題視していたわけではないかもしれない。ただ、「ほかの人が気にするだろう」と考えて行動しただけかもしれない。

こうして、自分はそれほど重視していない規則を、他人は重視していると思い込む人が増えていく。

人は他人の本音を見ることができない

多元的無知が発生する根本的な理由は単純である。

人は、自分の本音は知っているが、他人の本音は直接見ることができない。

他人について観察できるのは、その人の発言や行動だけだ。

しかし、発言や行動は、必ずしも本音を表していない。

人は集団のなかで摩擦を避けるために、周囲へ合わせる。

本当は退屈でも、楽しそうな顔をする。納得していなくても、会議では黙っている。無意味だと思っていても、決まりどおりに振る舞う。自分は気にしていなくても、他人が気にすると思って注意する。

ところが、私たちは他人の行動を見ると、それをその人の信念の表れだと解釈しやすい。

浴衣の襟合わせを正しくしている人を見て、「この人は襟合わせを重要だと思っている」と判断する。

しかし、その人は単に、あえて逆に着る理由がないから慣習に従っているだけかもしれない。

言い換えれば、私たちは他人の適応行動を、その人の支持表明として読み間違える。

ここで重要なのは、次の区別である。

規範に従っていることと、規範を支持していることは同じではない。

この二つは、外から見ると区別しにくい。

積極的に正しいと思って従う人も、くだらないと思いながら摩擦を避けるために従う人も、行動だけを見れば同じように見える。

その結果、人々のあいだにあるのが「共通の信念」なのか、それとも「共通の服従」なのかが分からなくなる。

全員が他人の演技を本音だと思う

多元的無知の構造を、もっと日常的な例で考えてみる。

大学の飲み会で、参加者の多くが、大量に酒を飲む文化をあまり好んでいないとする。

しかし、周囲の人は笑い、大声を出し、楽しそうに飲んでいる。自分だけが苦痛に感じているように見える。

そこで一人の学生は、自分も楽しそうに振る舞う。

その様子を見た別の学生は、こう考える。

あの人も楽しんでいる。やはり、この場をつらいと思っているのは自分だけなのだろう。

しかし実際には、楽しそうに見えた学生も無理をしていた。

それぞれが自分の苦痛は知っている。
それぞれが他人の演技だけを見ている。
そして、他人は心から楽しんでいると誤解する。

このとき、多くの人が心から支持していない飲酒文化が、皆に支持されているように見える。

大学生が、自分よりもほかの学生のほうが学内の飲酒文化を好意的に受け入れていると誤認する現象は、実際の研究でも報告されている。

職場でも同じことが起こり得る。

社員の多くが、遅くまで会社に残ることに意味はないと思っている。それでも、周囲が帰らないので自分も帰れない。

自分だけ先に帰れば、やる気がないと思われるかもしれない。

多くの社員がそう考えて残っているのに、それぞれは周囲を見て、「ほかの人たちは仕事熱心だから残っている」と解釈する。

こうして、誰も望んでいない長時間労働が、社員全体の働き方に対する価値観のように見える。

会議でも起きる。

ある提案について、参加者の多くが疑問を持っている。しかし誰も反対しないので、自分だけが理解できていないのかもしれないと思って黙る。

全員が黙った結果、その提案は異論なく承認される。

後になって個別に話してみると、実は賛成していた人がほとんどいなかったと判明する。

集団として承認したのに、個人として積極的に賛成していた人はほとんどいない。

奇妙に見えるが、人間の集団では十分に起こり得る。

「みんな」とは誰なのか

多元的無知のなかでは、「みんな」という言葉が重要な役割を持つ。

みんなが気にする。
みんながそうしている。
みんなに失礼だと思われる。
みんなが常識だと考えている。

しかし、この「みんな」が誰なのかを具体的に尋ねると、曖昧になることが多い。

自分が直接確認した相手なのか。実際に強く問題視している人なのか。SNSで発言している一部の人なのか。昔からそうだと教えた親や教師なのか。

あるいは、誰も直接には確認していない、想像上の世間なのか。

浴衣の襟合わせについても、「世間が気にする」という認識は、どれほど確かなものだろう。

実際に、多くの人が他人の襟を観察し、逆なら侮蔑するのだろうか。

それとも、一部の人が強く発言し、大多数は気づかないか、気づいても何とも思わないのだろうか。

この点は、調査しなければ分からない。

したがって、襟合わせの規範が多元的無知だけによって維持されていると断定することはできない。実際に、この規範を重視する人もいるだろう。

しかし、少なくともXの投稿で示されていたのは、投稿者自身の不快感よりも、「本人がほかの人からどう見られるか」への配慮だった。

自分が問題視しているから注意したというより、世間が問題視すると思ったから注意した。

ここには、多元的無知が生まれる基本的な条件がそろっている。

沈黙する人は、存在しないように見える

なぜ人々は、実際よりも規範が広く支持されていると思うのか。

一つの理由は、気にしない人が発言しないからである。

浴衣の襟合わせを重要だと思う人は、間違いを見つければ指摘する。注意喚起を投稿する。正しい着方を教える。

一方で、どちらでもよいと思っている人は、通常は何もしない。

わざわざ、

今日、襟合わせが逆の人を見かけたが、どうでもよいので何も思わなかった

とは投稿しない。

そのため、可視化されるのは規範を重視する側の意見ばかりになる。

これは、人口に占める割合と、発言に占める割合が一致しないという問題である。

少数の人が強い関心を持ち、大多数が無関心である場合、発言空間では少数派の声が多数を占めることがある。

SNSでは、この偏りがさらに増幅される可能性がある。

「これだけは覚えて」と注意する投稿は、役に立つ情報や親切な行動として共有されやすい。知識を教えてもらったと感じた人が反応し、投稿が広い範囲へ届くこともある。

一方、「別にどちらでもよい」という無関心は、情報として共有されにくい。

結果として、強く発言する少数者の規範意識が、社会全体の総意に見えることがある。

そして、その見かけ上の総意を見た人々が、さらに規範へ従う。

善意が誤解を強化する

浴衣の投稿が興味深いのは、投稿者が悪意によって他人を取り締まったわけではないことである。

本人が恥をかくとかわいそうだと思った。デート中なら教えたほうがよいと思った。突然声をかければ怖がられるかもしれないので、慎重に伝えようとした。

そこには、明らかに配慮がある。

だからこそ、この問題は単純な「着物警察への批判」では終わらない。

善意で行動する人も、多元的無知を強化することがある。

「世間はこの規範を重視している」と考え、相手が世間から不利益を受けないよう規範を教える。

その教える行為が、別の人にとっては「世間がこの規範を重視している」という証拠になる。

こうして、善意が誤解を伝達する。

これは、多元的無知の厄介なところである。

明確な悪人がいない。誰かが全員を強制しているわけでもない。一人ひとりは、周囲へ配慮し、摩擦を避けようとしている。

それでも、全体としては、誰も必要としていない規範が維持される可能性がある。

人間はなぜ自分の判断より他人を優先するのか

ここまで読むと、「自分がくだらないと思うなら、無視すればよい」と考えるかもしれない。

しかし、人間が他人の判断を気にすること自体には合理性がある。

社会生活では、自分一人の評価だけで物事を決めることはできない。

言葉、服装、礼儀、列の並び方、仕事の進め方など、多くの行動は他人との調整を必要とする。

自分が問題ないと思っても、周囲が強く問題視するなら、実際に摩擦や不利益が生じる。

だから人間は、他人の評価を予測する。

問題は、他人の評価を予測することではない。

その予測が正しいかどうかを確かめず、周囲の表面的な行動だけから「皆の本音」を作り上げてしまうことである。

他人への配慮は必要だ。

しかし、他人に配慮しているつもりで、実際には自分が想像した他人へ従っていることがある。

その想像上の他人を、私たちは「世間」「普通」「常識」「みんな」と呼ぶ。

多元的無知を見抜くための問い

多元的無知が疑われる場面では、まず二つの問いを分ける必要がある。

一つ目は、

自分自身は、この規範をどう評価しているのか。

二つ目は、

他人がこの規範を支持しているという判断には、どのような根拠があるのか。

多くの場合、この二つは混ざっている。

自分では重要だと思っていないのに、「普通は重要だ」と考える。

しかし、その普通が何に基づいているかは確認していない。

周囲が従っていることが根拠なら、さらに尋ねる必要がある。

その人たちは、支持しているから従っているのか。
それとも、ほかの人が支持していると思って従っているだけなのか。

外から行動を見ただけでは分からない。

だからこそ、本音を言葉にして確認することには意味がある。

職場で無意味な会議が続いているなら、匿名で意見を集めてみる。飲み会への参加を当然とせず、参加したくない人がどの程度いるか尋ねてみる。慣習について「守るべきか」だけでなく、「自分自身はどれほど価値を感じているか」を聞く。

すると、想像していた多数派が存在しなかったと分かることがある。

襟合わせから見える社会の誤作動

浴衣の襟合わせは、非常に小さな問題である。

慣習に従って着ても、大きな負担ではない。逆に着た人へ声をかけたところで、社会が深刻な被害を受けるわけでもない。

しかし、小さな問題だからこそ、人間の集団がどのように規範を作るかが見えやすい。

自分はさほど気にしていない。
しかし、他人は気にすると思う。
だから、相手が恥をかかないよう教える。
その行動を見た人が、世間は気にしていると判断する。
そして、次の人にも教える。

この循環のなかでは、規範を本気で望む多数派が存在する必要はない。

必要なのは、各人が「他人は望んでいる」と思うことだけである。

社会の意思とは、常に構成員の本音を集計したものとは限らない。

互いの本音についての誤解が積み重なり、あたかも社会全体の意思であるかのように振る舞い始めることがある。

次回へ

多元的無知とは、単に多くの人が何かを知らない状態ではない。

自分はその規範を重要だと思っていない。しかし、他人は重要だと思っているはずだと推測する。その推測に従って行動し、その行動を見た他人が、こちらも規範を支持しているのだと誤解する。

こうして、誰も直接には確認していない「みんなの意思」が生まれる。

私たちは、自分の考えに従っているつもりで、実際には他人の考えについての推測に従っていることがある。

そのとき最初に問うべきなのは、「みんなはどう思うか」ではない。

そもそも、自分はどう思っているのか。
そして、本当に他人はそう思っているのか。

この二つを分けて考えなければならない。

浴衣の襟合わせをめぐる小さな話は、人間社会の大きな誤作動を映している。

人は、存在しない多数派に従うことがある。そして、その服従そのものが、多数派が存在する証拠として利用される。

皆が従っているという事実は、皆が望んでいるという証拠ではない。

では、そのようにして生まれた規範は、なぜ消えず、むしろ強くなっていくのか。

次回は、善意と羞恥が、無意味な社会規範を再生産する仕組みについて考える。

(了)


深水英一郎

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