無意味な社会規範はなぜ自己強化するのか——善意と羞恥がつくる規範の再生産(連載:多元的無知はなぜ発生するのか #02)

「多元的無知はなぜ発生するのか」という連載の第2回です。

たとえば、葬儀に参列することになった人が、香典袋の書き方を調べているとする。

表書きには何と書けばよいのか。薄墨を使うべきなのか。名前はどこに書くのか。お札の向きはどうするのか。新札は避けるべきなのか。袋は袱紗に包むべきなのか。受付ではどちら向きにして渡すのか。

調べれば調べるほど、宗派や地域による違いも含め、さまざまな「正しい作法」が出てくる。

その人が葬儀で示したいのは、亡くなった人への弔意である。遺族に余計な負担をかけず、静かに別れを告げたい。それだけである。

ところが実際には、悲しみをどう表すかよりも、形式を間違えていないかに多くの注意を割くことになる。

周囲の人も、その作法のすべてに深い意味があると思っているとは限らない。

それでも、知らずに間違えれば恥をかくかもしれない。遺族に失礼だと思われるかもしれない。社会人として常識がないと評価されるかもしれない。

だから、詳しい人は教える。

「今後困らないように、これだけは覚えておいたほうがよい」

教える側には悪意がない。むしろ善意である。目の前の人が恥をかかないようにしようとしている。

だが、この親切には奇妙な逆説がある。

知らなければ恥をかく社会から人を守るために作法を教える。その結果、作法を知らなければ恥をかく社会が、次の世代へそのまま引き継がれる。

規範によって生じる不利益を避けるための教育が、規範そのものを延命している。

前回は、人が自分の判断ではなく、他人の判断についての推測に従う「多元的無知」について考えた。

今回は、そこから生まれた規範が、なぜ時間とともに消えるのではなく、むしろ自分自身を強化していくのかを考えたい。

問題を防ぐ規範と、問題を自作する規範

社会生活に規範は必要である。

赤信号では止まる。食べ物を扱う前には手を洗う。危険な機械を操作するときは安全手順を守る。列に並んだ人を追い越さない。

こうした規範には、規範とは別に存在する問題を防ぐ働きがある。

赤信号を無視すれば、車や歩行者が衝突する可能性が高まる。衛生手順を無視すれば、食中毒の危険が増える。安全確認を省けば、事故が起きる。

仮に社会の全員が「信号など気にしなくてよい」と考えるようになっても、車両同士が同じ場所へ同時に進入すれば衝突するという物理的な問題は残る。

このような規範を、ここでは便宜上「実害防止型の規範」と呼ぶことにする。

一方で、違反による問題の大部分が、規範そのものによって生み出されているものもある。

浴衣の襟合わせを逆にする。香典袋の細かな作法を間違える。ビジネスメールの冒頭に定型的な挨拶を書かない。名刺を机の上に置く位置を間違える。決められた服装の細部から少し外れる。

これらについて、もし誰もその違いを問題視しなくなったら、何が残るだろう。

襟合わせが逆でも、服は着られる。香典袋の向きが違っても、弔意や金額は変わらない。定型句がなくても、メールの用件は伝わる。名刺を置く位置が違っても、名前や連絡先は読める。

それでも問題が起きるとすれば、周囲の人が「間違っている」「失礼だ」「常識がない」と判断するからである。

つまり、規範が外部の問題を防いでいるのではない。

規範から外れた人を周囲が評価し、その評価が本人に不利益を与えている。

このようなものを、ここでは「自己生成型の規範」と呼ぶ。

実害防止型の規範は、規範を廃止しても問題が残る。

自己生成型の規範は、皆が規範を気にしなくなれば、問題の大部分も一緒に消える。

両者を区別しなければならない。

規範が自分で問題を作り、自分で解決する

自己生成型の規範には、独特の循環がある。

まず、ある形式が正しいとされる。

その形式を知らない人が現れる。

周囲は、その人が恥をかく、失礼だと思われる、社会的評価を落とすと考える。

そこで、本人が不利益を受ける前に規範を教える。

教えられた人は、次に同じ間違いをする人を見つけたとき、「知らないと困るから」と教える。

こうして規範は受け継がれていく。

問題なのは、教えることで防ごうとしている不利益が、規範自体の存在によって生まれていることだ。

香典袋の作法を知らないと恥をかく。

では、なぜ恥をかくのか。

作法を知らない人を、周囲が「常識がない」と評価するからである。

では、なぜ周囲はそのように評価するのか。

その作法を守るべきものとして、皆が次の人へ教えているからである。

規範が人に羞恥を与える。羞恥を避けるために規範を教える。教えることによって規範が維持される。維持された規範が、再び人に羞恥を与える。

規範は、自分自身が発生させた問題を解決しているように見せる。

壊れた機械を修理しているのではない。自分で機械を壊し続けながら、修理の必要性を証明しているようなものである。

「守られている」ことが必要性の証拠になる

無意味な規範が自己強化するもう一つの理由は、規範を守る行動が、その規範の必要性を示す証拠として解釈されるからである。

ある会社では、会議資料を毎回人数分印刷しているとする。

参加者は全員ノートパソコンを持っており、会議中も画面で資料を見ている。印刷された資料はほとんど使われない。

それでも、担当者は毎回印刷する。

前任者がそうしていたからである。

新しい担当者は、こう考えるかもしれない。

毎回印刷されているということは、誰かが必要としているのだろう。

しかし、前任者も同じように考えていた可能性がある。

前々任者が印刷していたから、必要なのだろうと思った。

参加者は紙の資料を受け取るが、わざわざ不要だとは言わない。配られたものを机の上に置く。

その様子を担当者が見て、「やはり必要なのだ」と判断する。

ここでは、誰も積極的に紙の資料を求めていない。

それでも、印刷する行動と受け取る行動が、互いを根拠として循環する。

印刷されているから必要に見える。必要に見えるから印刷する。印刷するから、必要な慣行として残る。

規範が守られているという事実は、その規範が支持されていることや、必要とされていることを意味しない。

しかし、外からは区別しにくい。

前回確認したように、遵守と支持は別である。

ところが人は、他人の遵守を支持の表明として受け取りやすい。その誤認によって、規範はさらに守られる。

これが自己強化である。

善意が規範の伝達装置になる

無意味な規範は、厳格な権力者だけによって維持されるわけではない。

むしろ、その多くは親切な人によって伝えられる。

「知らないと将来困る」
「ほかの人に注意される前に教えてあげたい」
「社会に出て恥をかかないように」
「本人のためを思って言っている」

こうした言葉は、学校、家庭、職場、冠婚葬祭などで頻繁に使われる。

教える人は、相手を支配したいとは思っていないかもしれない。

自分もかつて誰かに教えられ、知らなければ不利益を受けると思っている。だから次の人を守ろうとする。

しかし、その人が教えることで、「知らなければ不利益を受ける社会」が再生産される。

たとえば学校が、生徒に細かな服装規則を守らせるとする。

学校側は、「社会に出たときに困らないため」と説明する。

しかし、その細かな服装を本当に社会全体が要求しているかは、必ずしも明らかではない。

学校が厳格に教えることで、生徒は「社会ではこれが当然なのだ」と学ぶ。

やがて、その生徒が管理する立場になり、若い人に同じ基準を適用する。

すると、もともとは曖昧だった社会の要求が、教育によって現実の要求へ変わっていく。

「社会が求めているから教える」という行為が、社会が実際にそれを求める状態を作り出す。

これは、予言が自らを実現する構造に近い。

善意は、規範の外側から人を救うだけではない。

規範の内側へ人を適応させることによって、規範を存続させる。

羞恥は安価で強力な制裁である

無意味な規範を維持するために、大きな罰は必要ない。

罰金や解雇、法的処罰がなくてもよい。

「恥ずかしい」
「常識がない」
「育ちが分かる」
「社会人としてどうなのか」
「失礼な人だ」

こうした短い人格評価だけで、人は規範へ従うよう促される。

羞恥が強力なのは、何が具体的な被害だったのかを説明しなくても機能するからである。

誰かが浴衣の襟合わせを逆にしている。

その人は誰にも危害を与えていない。

それでも、「恥ずかしい着方だ」と言えば、本人に修正を促せる。

香典袋の書き方を間違えても、それによって遺族の悲しみが増すとは限らない。

それでも、「常識がないと思われる」と言えば、作法を守らせることができる。

実害による説明が弱い規範ほど、人格や品位に結び付けられやすい。

「この行為は何を傷つけるのか」と問われても、具体的に答えにくいからである。

そこで、行為の結果ではなく、行為者の人間性が問題にされる。

間違えたことが問題なのではなく、間違えるような人であることが問題だとされる。

形式の違反が、無知、未熟、無礼、教養不足へ変換される。

この変換によって、規範は道徳化される。

規範の道徳化

多くの慣習は、最初から道徳だったわけではない。

単に一般的なやり方だった。都合上、片方に統一されていた。以前の環境では多少の実用性があった。あるいは、誰かがそう決めた。

しかし長く続くと、「一般的なやり方」が「正しいやり方」へ変わる。

さらに、「正しいやり方」が「守るべき礼儀」へ変わる。

最終的には、「守らない人は配慮がない」という人格評価になる。

多くの人がしているから、普通である。普通だから、正しい。正しいから、守るべきである。守らない人には、何か問題がある。

この推論には飛躍がある。

多くの人がしていることは、それが広く普及していることを示すだけであり、合理的であることや倫理的に正しいことを示さない。

しかし、慣習が道徳化されると、その区別は見えなくなる。

やり方を知らないだけの人が、配慮を欠いた人として扱われる。

その結果、形式を守ることが、他人を思いやることと同一視される。

そして善意ある人ほど、形式を熱心に教えるようになる。

人が実際にしていることについての認識は、「人はそうするべきだ」という判断や、その行為が道徳的かどうかという評価にも影響し得る。

多くの人が従っているという事実が、いつの間にか、その規範は正しく、守られるべきだという判断の根拠になるのである。

「本人のため」という閉じた循環

無意味な規範を指摘する人に対して、「放っておけばよい」と言うと、しばしば次の反論が返ってくる。

私自身は気にしない。
しかし、ほかに気にする人がいる。
本人が後で恥をかくとかわいそうだから教えている。

この説明は、個人の親切としては理解できる。

現実に規範が存在し、違反者が不利益を受けるなら、その情報を伝えることは短期的には本人を守る。

問題は、それを皆が繰り返すと、規範が残り続けることである。

Aさんは、BさんがCさんに批判されないよう規範を教える。

Bさんは、将来Dさんが批判されないよう、同じ規範を教える。

CさんやDさんも、自分が悪意で批判しているとは思っていない。本人のために教えていると考える。

全員が他人を守ろうとしている。

それでも、全員が互いを監視し、修正し続ける社会ができあがる。

この構造では、規範を維持する主体が見えにくい。

誰か一人の権力者が命令しているわけではない。

社会全体が、小さな善意を連結することで、自分自身を統制している。

文化や儀礼はすべて無意味なのか

ここまでの議論に対して、「機能的な意味がない文化や儀礼を、すべて無駄と切り捨てるのか」という反論が考えられる。

しかし、そうではない。

人間にとっての価値は、物理的な実用性だけではない。

祭り、儀式、服装、贈答、伝統的な作法には、美的な楽しさ、共同体への所属感、記憶の継承、場面を切り替える効果がある。

本人たちがその形式を楽しみ、意味を感じ、自発的に参加しているなら、それ自体が価値である。

問題は、実用性がないことではない。

形式を守らない人へ不利益を与え、その不利益を理由に形式を強制することである。

茶道の作法を学び、その複雑さを楽しむことと、日常生活で作法を知らない人を無礼だと評価することは違う。

浴衣の伝統的な着方を美しいと感じることと、逆に着た人を恥ずかしい人とみなすことも違う。

文化は、参加者に意味や喜びを与える。

自己強化する規範は、逸脱者を評価し、従わせることで存続する。

この二つを混同してはならない。

「皆が気にしなくなれば消える」だけでは足りない

自己生成型の規範を見抜くための強い問いは、次のものである。

もし全員がこの違反を気にしなくなったら、具体的な問題は残るだろうか。

問題が消えるなら、その規範が自ら問題を作っている可能性が高い。

ただし、社会的に作られた規則が、すべて無意味なわけではない。

たとえば、道路の左側通行には、左側でなければならない自然法則はない。右側通行でも交通は成立する。

それでも、各人が好きな側を走れば事故が起きる。

この場合、左右の選択自体は恣意的でも、全員が同じ側を選ぶという統一には大きな価値がある。

言語や通貨にも同じ側面がある。

言葉と意味の結び付きは人間が決めたものだが、共通の意味がなければ意思疎通できない。紙幣そのものの物理的な価値が小さくても、皆が交換価値を認めることで取引が成立する。

したがって、判断には二段階が必要である。

第一に、その規範がなくなったとき、物理的、倫理的、調整上の問題が残るか。

第二に、その便益は、規範を教育し、監視し、逸脱者を罰するコストに見合っているか。

襟合わせを一方へ統一しておけば、着付けの説明が少し簡単になるかもしれない。

しかし、その小さな便益のために、逆に着た人を死者と結び付け、恥ずかしいと評価し、見知らぬ人へ声をかけ、SNSで注意喚起を広める必要があるのか。

問題は、便益が完全にゼロかどうかではない。

便益に対して、社会が払い続けている維持費が過剰ではないかということである。

無意味な規範が奪うもの

この種の規範が生むコストは、覚える手間だけではない。

人は、形式を間違えないよう注意を払う。他人の形式違反を見つける。指摘するべきか悩む。指摘された人は恥を感じる。教えるための文章や教材を作る。学校や会社で研修する。間違いがないか確認する。場合によっては、撮影や制作をやり直す。

小さな規範一つひとつのコストは小さく見える。

しかし社会には、同じような規範が大量にある。

メールの書式、名刺の扱い、席順、服装、冠婚葬祭、贈答、社内文書、承認手続き、学校の服装規定。

一つひとつについて、「それくらい覚えればよい」「従ったほうが早い」と言われる。

その結果、人間の時間と注意力が、無数の小さな形式へ分割される。

より重要な問題は、形式への注意が、本質への注意を奪うことである。

弔意より香典袋の書き方を気にする。会議の目的より資料の形式を気にする。仕事の成果よりメールの挨拶を気にする。本人の快適さより服装規則を気にする。

人間の注意力は有限である。

どうでもよい形式を監視するために使った注意は、相手が本当に困っていることや、仕事の本当の問題には使えない。

無意味な規範の最大のコストは、時間だけではない。

社会が重要ではないものを重要だと思い込み、本当に重要なものを見る力を失うことである。

規範を弱めるのは「再配布しないこと」

現実に規範が存在する以上、個人が従うことには合理性がある。

浴衣を着るとき、特に理由がなければ慣習どおりに襟を合わせればよい。香典袋も、簡単に確認できるなら一般的な形式に従えばよい。

問題は、自分が従うことと、他人にも従わせることを同一視することである。

自分が摩擦を避けるために従ったからといって、その規範を価値あるものとして次の人へ教える必要があるとは限らない。

他人が形式を間違えていても、具体的な害がなければ訂正しない。

「知らないと恥をかく」と脅して伝承しない。

形式の違いを、教養や人格の評価へ結び付けない。

もちろん、個人が教えることをやめるだけで、制度や利害に支えられた規範が必ず消えるわけではない。

それでも、人々の日常的な監視、訂正、伝達によって維持されている規範なら、その再生産を弱めることはできる。

無意味な規範は、必ずしも大きな反対運動によって壊れるわけではない。

人々が監視をやめ、訂正をやめ、次の人へ当然の知識として配ることをやめれば、徐々に弱くなる可能性がある。

規範を正面から破ることよりも、規範を再配布しないことのほうが重要な場合がある。

次回へ

無意味な社会規範は、悪意だけによって維持されるわけではない。

むしろ多くの場合、それを支えているのは善意である。

知らないと恥をかくかもしれない。後で困るかもしれない。ほかの人から注意される前に、自分が教えたほうがよい。

こうした配慮は、目の前の一人を守ろうとする。

しかし同時に、「知らなければ恥をかく社会」を次の人へ引き継いでいる。

ここには奇妙な循環がある。

規範が人に羞恥を与える。その羞恥から人を守るため、別の人が規範を教える。教えられた人が、さらに次の人へ規範を伝える。その結果、規範が再び人に羞恥を与える。

規範は、外部の問題を解決しているのではない。

自分自身が作り出した問題を、解決しているように見せている。

だから、ある慣習に出会ったときには、こう問う必要がある。

その規則は、規則とは無関係に存在する実害を防いでいるのか。

それとも、その規則を破った人を社会が罰することでしか、問題が発生していないのか。

後者なら、その規則は問題の解決策ではなく、問題の発生源である。

意味のない規範は、守る人によってだけでなく、善意で教える人によって延命される。

しかし、それほど非効率な規範でも、簡単には消えない。

なぜなら、規範に従い、教え、監視することが個人には利益をもたらす一方で、一人だけ規範から離れようとする人には損失が生じることがあるからである。

次回は、私的報酬と協調失敗が、社会を非効率な規範へ閉じ込める仕組みについて考える。

(了)


深水英一郎

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