※本稿は『ボーはおそれている』(監督:アリー・アスター、主演:ホアキン・フェニックス)の結末まで触れています。
※以下には、作品内で確定されていない筆者独自の解釈を含みます。

『ボーはおそれている』は、前半と後半でまったく異なる印象を与える映画である。
前半は圧倒的に面白い。極度の不安を抱える中年男性ボーが、父親の命日に母親の家へ帰ろうとする。ただそれだけの話なのに、彼が恐れていることが次々と現実になる。
鍵と荷物を盗まれ、水を求めて部屋を離れれば住居を占拠され、助けを求めれば新たな災難を招く。何かが起きるたびに状況は予想外の方向へ転がり、次に何が起こるのかまったく分からない。
この序盤には、暴力と笑いがほとんど同じ場所から生まれる、北野武の映画にも似た感触がある。深刻な出来事が劇的な予告なしに起こり、人物たちは常識では説明できない行動を取る。ボーにとってはすべてが恐怖だが、外から見ればあまりにも過剰で滑稽である。
筋書きはむちゃくちゃに見える。しかし、感情の筋は通っている。
ボーが恐れる。恐れたことが現実になる。その結果、彼は被害者であるにもかかわらず、自分が悪かったのではないかと考える。出来事の因果関係ではなく、不安と罪悪感の連想によって物語が進んでいくのである。
ところが、森の中で演劇を見るあたりを境に、映画は次第に停滞し始める。
映像はさらに奇怪になり、舞台はさらに巨大になる。しかし、そこから得られる意味はあまり増えていかない。母親に支配された息子は、どこまで逃げても母親から逃れられない。この単純な主題が、母親の邸宅、企業広告、監視映像、屋根裏の人物、巨大な男性器、最後の公開裁判へと姿を変えながら繰り返される。
しかも、映画が進むほど、一つの変奏に使われる時間は長くなる。
序盤は数分ごとに新しい出来事が起こった。後半は巨大な装置と長い場面によって、すでに伝わっている主題を何度も説明する。映像は予測不能なのに、意味は予測どおりである。
この後半を「難解」と呼ぶのは少し違う。むしろ、語っていることはかなり単純で、早い段階ですでに理解できてしまう。そのため、観客は次第に「もう分かった。それで何なのか」という気分になってくる。
しかし、その反復の中にも、作品を単なる毒親映画から一段深くする手がかりが残されている。
それが、母親モナの巨大企業である。
ボーは本当に母親から独立していたのか
母親の家へ到着したボーは、モナが築いた企業の歴史を示す広告群を見る。
そこには、幼いボーが繰り返し登場する。モナは息子を守るために商品を作り、それを事業へ発展させ、巨大な成功を収めたらしい。
さらに、成人したボーが住んでいた集合住宅も、母親の会社が運営する更生・社会復帰用の居住地区として広告に掲載されている。そこには入居者としてボー自身の写真まで使われている。
ボーは母親から離れ、都会で独立して暮らしていたのではなかった。
彼が自分の人生だと思っていたものは、最初から母親の事業の内部にあった。住居は母親の会社が用意し、精神科医は診療内容を母親へ報告する。生活中の姿は撮影され、その生活自体が広告へ転用される。
幼少期だけでなく、成人後も、ボーは母親の事業に組み込まれている。
これは単に「母親が息子を監視していた」という話ではない。
ボーの独立そのものが母親によって設計されていたのである。彼は閉じ込められていることに気づかないまま、母親が作った施設の中で「独立して暮らす息子」を演じていた。
物理的な監禁よりも、こちらの方が完全である。
家に閉じ込められた者は、自分が囚人であることを理解できる。外へ出ようとする意思も持てる。しかし、自由に暮らしていると思わせながら、その生活の枠組みをすべて所有すれば、本人は脱出しようとさえ思わない。
モナはボーの行動を監視しただけではない。ボーが自分の人生だと思っていた枠組みまで所有していた。
巨大企業は本当に存在したのか
映画内の出来事をそのまま受け取るなら、モナは巨大企業を経営する富豪である。彼女の会社は住宅、医薬品、日用品など生活の広い範囲へ進出し、多数の社員と巨大な監視網を持っている。
ただし、この映画にはボーの主観から独立した「客観的現実」がほとんど示されない。
街の異常さも、巨大な男性器の怪物も、海上に現れる巨大法廷も、現実と妄想を区別しないまま提示される。したがって、母親の会社と富だけを写実的な設定として確定する必要もない。
ここから先は、映画内で確定されていない一つの解釈である。
実際のモナは、巨大企業の経営者でも富豪でもなかったのではないか。
巨大企業は、ボーにとっての母親の心理的な権力を、映画が視覚化したものではないか。
ボーにとって母親は、自分の生活のすべてを知り、どこにいても監視し、必要なものをすべて与えたと主張する存在である。周囲の人々は母親の正しさを支持し、ボーが何を訴えても、最後には彼の方が悪いことになる。
その圧倒的な力を物質化すれば、生活用品から住宅、人間関係まで所有する巨大企業になる。
会社の富とは、母親が「私はあなたにこれだけのものを与えた」と主張する、愛情と犠牲の総額なのではないか。
ビジネスの成功は、母親としての成功である
モナの事業は、安全、健康、治療、保護、住居を提供している。いずれも、社会が理想的な母親に期待する機能である。
危険から守る。病気を治す。必要なものを与える。安全な居場所を用意する。社会へ戻れるよう支援する。
モナはこれらを事業化し、巨大な成功を収めた。すなわち会社の成功は、「自分の保護思想は正しかった」という社会的承認を意味している。
息子のために考えたものが社会に必要とされ、大きな利益を生んだ。これほど多くの人から支持された自分が、母親として間違っているはずがない。モナの中では、市場での成功と母親としての正しさが一体化している。
しかし、その子育ての結果であるボー本人は、幸福でも自立してもいない。
彼は自分で物事を決められず、他人と親密な関係を結べず、母親が目の前にいなくても、母親を失望させていないかと怯え続ける。
社会から見れば、モナは理想的な母親である。息子を守ろうとした愛情を、社会全体を守る事業へ発展させた成功者である。
その一方で、実際の息子は、その保護によって破壊されている。
ただし、モナ自身の基準に従うなら、彼女は母親として成功している。
彼女が本当に望んでいるのは、ボーが幸福になることでも、一人の人間として自立することでもない。自分を必要とし続け、自分に感謝し、他の女性を自分以上に愛さず、母親を失望させた罪悪感を持ち続ける息子である。
その育成には、完全に成功している。
息子は母親が制作した作品である
モナにとってボーは、単なる商品ではない。
自分が母親として正しかったことを証明する作品である。
親は子どもを産み、育て、教育し、社会へ送り出す。その過程で、子どもを自分が手がけた作品のように感じることがある。子どもの成功は、親の愛情、判断、教育能力の成果として語られる。
しかし、子どもが作品なら、作者である親の意図から外れることは失敗になる。
子どもが親とは異なる価値観を持つことも、親の望まない相手を愛することも、親が用意した人生から離れることも、本人の自己決定ではなく、作品の欠陥や作者への裏切りとして扱われる。
モナがボーに与えた愛情は、無条件の贈与ではない。
彼女は「これだけ愛した」「これだけ守った」「これだけ犠牲になった」と過去の行為を記録し、その対価としてボーの全人生を要求する。
母親の愛情は投資となり、息子の服従がその回収になる。
ボーが自分の人生を選ぶことは、母親の投資を毀損する行為になる。だから電話に出ないことも、帰省に遅れることも、別の女性を愛することも、すべて母親への裏切りとして裁かれる。
父親は射精によって役割を終える
モナはボーに、父親はボーを受胎させた性交の際、射精した瞬間に死亡したと教える。
これが医学的な事実かどうかは重要ではない。むしろ、モナの家族観を象徴する物語として読むべきだろう。
父親は精子を提供し、子どもを受胎させた時点で役割を終える。その後の母子関係には必要とされない。実際には生きていたとしても、モナの世界では意味のない存在になる。
父親が死んだのではない。父親として存在する権利を剥奪されたのである。
屋根裏にいる父親が、人間ではなく巨大な男性器として現れるのも、そのためではないか。
モナは父親から、名前、顔、言葉、人格、息子との関係をすべて取り除く。最後に残るのは、ボーを受胎させた生殖器だけである。
あの怪物は、単に抑圧された男性性や性欲を表しているのではない。
母親によって、精子を提供する機能だけへ還元された父親なのである。
森の中では、ボーの父親を知っている、父親はまだ生きていると告げる男性が一瞬だけ現れる。あの人物が本当の父親なのかは確定しない。しかし少なくとも、父親が一人の人間として存在し、ボーと関係を結ぶ可能性を開く。
その可能性は、直後に暴力によって消される。
父親が人間としてボーと出会えば、母親の説明を相対化し、別の出生物語を与え、母親とは異なる価値基準を示すかもしれない。モナの完全な支配には、父親の不在が必要なのである。
父親の役割は終わるが、母親の役割は終わらない
父親と異なり、母親の役割は受胎後も続く。
母親は妊娠し、出産し、育て、守り、必要なものを与える。この身体的・時間的な非対称性は実際に存在する。
しかしモナは、その非対称性を所有権へ変える。
父親は一瞬の行為しかしていない。自分は身体と人生を使って息子を産み、育てた。したがって、息子は自分のものである。
本来、母親の役割にも終点はある。子どもが成長すれば、保護の必要性は減り、母親と子どもは別の人間として関係を作り直す。
ところがモナは、その役割を終わらせない。
ボーを不安で自立できない人間に育てれば、母親は永遠に必要とされる。息子が中年になっても、保護、治療、住居、監視を続けられる。
モナの会社が薬、日用品、住宅、治療を提供しているのも、この「終わらない母性」を表している。
彼女はボーを一度産んで終わったのではない。薬によって精神状態を管理し、住宅によって生活環境を作り、医師によって内面を監視し、広告によって社会的な立場を定義する。
成人後も、息子を制作し続けている。
モナにとって子育てとは、完成した子どもを社会へ送り出すことではない。息子を永遠に制作し続けることである。
だからボーには、完成する時が来ない。完成すれば母親の仕事が終わり、息子は母親の作品ではなくなるからである。
父親の役割は受胎の瞬間に強制終了され、母親の役割はボーの死まで延長される。この極端な非対称性が、映画全体を支配している。
射精によって生まれ、射精によって死ぬ
映画はボーの誕生から始まる。
画面はまだ暗く、母親の声だけが聞こえる。ボーが生まれた直後から、母親は「落とされた」「なぜ泣かない」と周囲を責める。
誕生は祝福されない。
ボーは世界に迎え入れられる前から、危険にさらされた子ども、母親が守らなければならない子ども、母親へ不安と苦痛を与える子どもとして扱われる。
さらにモナの物語によれば、ボーが生まれるために父親は死亡した。母親もまた、ボーを育てるために多大な犠牲を払ったと主張する。
ボーの存在には、生まれた瞬間から二重の負債が設定されている。
父親はボーを作るために死に、母親はボーを育てるために人生を犠牲にした。ボーは何もしていないのに、生きているだけで両親に借りがある。
だから自分の人生を自分のために使えない。
ボーが性行為を恐れるのも、単に射精すれば死ぬと思っているからではない。母親以外の女性と結ばれることは、母親の子どもから一人の男性になり、新しい家族を作り、父親になる可能性を持つことだからである。
これは、ボーを永遠の息子として所有したいモナにとって最大の離反になる。
そこでモナは、性と死を結びつける。
射精すれば父親と同じように死ぬ。そう信じさせれば、ボーが一人の男性となり、次の世代の父親になることを阻止できる。
一度だけ破られる母親の呪い
ボーはエレインと性交し、射精しても死なない。
この瞬間、母親から教えられてきた呪いは一度だけ破られる。
母親の話は嘘だった。自分は性欲を持ってもよい。母親とは別の女性を愛してもよい。一人の男性として生きられる。
本来なら、ここがボーの解放になるはずだった。
ところが、死んだのはエレインである。
ボーが生き残ったことで呪いが消えるのではなく、死が相手へ移る。自分の欲望によって、愛する女性を殺してしまったように見える。
「性行為をすれば自分が死ぬ」という恐怖は、「自分の欲望を実行すれば他人が死ぬ」という、さらに強い罪悪感へ変わる。
新しい関係は成立せず、ボーが父親になる可能性も閉ざされる。
母親の呪いは否定された直後、より強い形で再構築されるのである。
最後の爆発は、誕生を取り消す射精である
最後の裁判で、船のモーターが爆発し、ボーは水中へ沈む。
アリ・アスター自身、あの爆発について、映画は射精で終わる必要があったという趣旨の説明をしている。
構造上、映画は一本の生殖の円環になっている。
父親の射精によってボーは受胎し、誕生する。母親に支配された人生を送り、最後にはボー自身の射精を示す爆発によって死ぬ。
ただし、射精そのものがボーを不幸にしたのではない。
母親がボーの誕生を、父親の死と自分の犠牲によって成立した負債として語ったため、ボーは自分の生を一度も所有できなかったのである。
映画は暗い子宮の内部から始まり、最後にはボーが再び水中へ沈んで終わる。水は羊水や子宮を連想させる。
冒頭では水の中から外へ生まれ、最後には外の世界から水の中へ戻っていく。
しかし、それは安らかな帰還ではない。
ボーは母親から独立した男にも、次の世代を作る父親にもなれず、生まれる以前の場所へ回収される。それは死であると同時に、母親による誕生の取り消しである。
「お前は生まれてくるべきではなかった。お前の人生は母親を傷つけただけだった。だから生まれる前の場所へ戻れ」
最後の水没は、そのような判決の執行に見える。
巨大法廷は公開処刑のスタジアムである
最後にボーが連れていかれる場所は、通常の法廷ではない。
中央で一人の人間が裁かれ、その周囲を巨大な観客席が取り囲んでいる。そこでは裁判、劇場、競技場、公開処刑が一つになっている。
ボーの人生は巨大なスクリーンへ映される。過去の行為は裁判の証拠であると同時に、大衆が消費する映像になる。
母親がボーを告発し、批評家のような代理人が、彼の失敗を論証する。ボーを弁護する人物は、高所から岩へ落とされる。これは『ミッドサマー』の崖からの落下を思わせる自己引用でもある。
ただし、ここで落とされるのは、共同体の規則に従う高齢者ではない。ボーの側に立ち、「彼は悪くない」と語る唯一の人物である。
屋根裏では、母親に逆らったもう一人のボーが閉じ込められた。法廷では、ボーを弁護する声が岩へ落とされる。
反抗する自分も、自己弁護する自分も殺され、ボーの内部には母親に対抗できる声が残らない。
観客は自ら判決を下すわけではない。ただ裁判を見物し、その不公平さに異議を唱えないことで、母親の私的な断罪を社会的な正義へ変える。
そしてボーが水中へ消えると、観客は映画が完全に終わる前から席を立ち始める。
彼が本当に死んだのか、救われる可能性があるのかを確かめようとはしない。彼らが見たかったのはボーの人生ではなく、ボーが裁かれ、処罰される場面だったからである。
処刑という見せ場が終われば、残る理由はない。
母親とは、作品を裁く観客なのか
ここから先も、作品内では確定されていない解釈である。
モナは、実際の母親だけを表しているのではないのかもしれない。
彼女は、自分を生み、育て、価値を与えた代わりに、期待どおりに振る舞うことを要求する「母親的な存在」である。
作家にとって、それは観客であり、批評家であり、映画会社であり、過去作のファンであり、自分の名前についたブランドでもある。
アリ・アスターは『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』によって観客と批評家から承認され、作家として成功した。その成功によって自由と制作費を得た一方、「アリ・アスターらしい作品」を期待されるようになった。
作家を生み、育て、成功させた観客が、その後の作品を監視し、評価し、過去作と比較する母親的な存在になる。
モナの巨大企業は、母親としての成功の比喩であると同時に、前二作によって築かれた「アリ・アスター」という作家ブランドの比喩にも見える。
そしてボーがその企業の施設内で暮らしていたように、アリ・アスター自身も、自分を成功させたブランドの内部で作品を作っている。
本作が前二作と同じ母子、家族、性、共同体、処罰の主題を巨大化して反復するのは、アリ・アスター自身もまた、自分を作家にした母親的な視線から逃れられていないからではないか。
観客は帰れるが、作者は帰れない
最後の巨大法廷は、作品を公衆の前へ差し出した作家が経験する公開裁判でもある。
作品が公開されると、作者の意図、過去、発言、前作との比較が証拠として並べられる。批評家は何が成功し、何が失敗したかを論証し、大衆は点数をつけ、判定を共有する。
一度公開された作品は、作者の手元には戻らない。
ボーの足が船へ固定されているのも象徴的である。彼は裁判から立ち去れず、自分の人生という作品とともに、観客の前へ縛りつけられている。
観客には途中で帰る自由がある。しかしボーにはない。
観客は作品を見限り、次の映画へ移れる。作者は、自分が作った作品とその評価から立ち去れない。
劇中の観客は、そのまま『ボーはおそれている』を観ている私たちと重なる。
私たちは三時間にわたってボーの苦痛を見物し、彼が死んだと思えば作品を評価して帰っていく。「前半は面白かったが、後半は冗長だった」と判定する本稿もまた、巨大法廷の観客席から発せられた声である。
だからといって、作品への批判を撤回する必要はない。
観客による安易な判定を映画が批判していることと、映画の後半が実際に冗長であることは両立する。
むしろ、あらゆる批判を「無理解な観客による不当な裁判」として作品内部へ回収できてしまう構造には、少し狡猾なところがある。作品が観客を批判しているからといって、観客が作品を批判できなくなるわけではない。
作家性の解放と、編集の不在
『ボーはおそれている』の前半には、作家性が解放されたことでしか生まれなかった映画的な発明がある。
都市の狂気、唐突な暴力、善意による拘束、悪夢のような因果関係。次に何が起こるか分からないのに、すべてがボーの不安という一点でつながっている。
しかし後半では、同じ作家性の解放が自己反復へ変わる。
作家が持っている発想をすべて入れることと、作品に必要なものを選ぶことが分離してしまった。象徴は増え、場面は長くなり、舞台は巨大になるが、中心命題はほとんど変わらない。
母親から逃れられない。性から逃れられない。罪悪感から逃れられない。世界全体が母親の所有物である。ボーは最後まで有罪である。
同じ結論が何度も繰り返される。
この映画は難解だから退屈になるのではない。
語っていることがあまりにも単純で、しかも早い段階で伝わってしまうため、後半の変奏が「もう分かった」という確認作業になるのである。
母親が完成させた最大の商品
『ボーはおそれている』を、本稿の解釈に沿って一文に圧縮するなら、次のようになる。
息子を自立させなかった母親が、その依存を愛情と献身の成功として誇り、息子自身にもそれを信じ込ませた物語。
巨大企業が実在したのか、ボーの主観が作り出したものなのかは確定できない。
しかし、企業が象徴するものは明確である。
モナが完成させた最大の商品は、薬でも住宅でも日用品でもない。母親の外へ出られず、自分で自分を監視し、最後まで母親に許しを求め続ける息子である。
父親は息子を受胎させた射精の瞬間に役割を終え、人間性を奪われ、屋根裏の生殖器へ還元される。母親だけは薬、住宅、医師、監視を通じて、成人後も息子を作り続ける。
そして息子が母親から離れ、新しい女性と関係を結び、一人の男性や父親になる可能性は、性と死を結びつけることで閉ざされる。
父親は射精によって死に、息子もまた射精を表す爆発によって死ぬ。その間を一貫して支配し、生き残るのは母親だけである。
モナの巨大なビジネス上の成功とは、その支配の完成を「母親としての成功」として祝う記念碑だったのではないか。
そして最後の巨大法廷は、その作品を公開した母親が、息子を大衆の前へ差し出す発表会である。
息子は作品として展示され、批評され、失敗作として処分される。観客はそれを見届けると、最後まで見守ることなく帰っていく。
『ボーはおそれている』とは、母親の作品として生まれた男が、その作者から独立できないまま、公開の場で廃棄されるまでを描いた映画なのである。
(了)
深水英一郎

小学生のとき真冬の釣り堀に続けて2回落ちたことがあります。釣れた魚の数より落ちた回数の方が多いです。
テクノロジーの発展によってわたしたち個人の創作活動の幅と深さがどういった過程をたどって拡がり、それが世の中にどんな変化をもたらすのか、ということについて興味があって文章を書いています。その延長で個人創作者をサポートする活動をおこなっています。