「多元的無知はなぜ発生するのか」という連載の第3回(最終回)です。
たとえば、ある会社で毎週一時間の定例会議が開かれているとする。
参加者は十人。会議では、それぞれが事前に共有した進捗報告を、資料の順番どおりに読み上げる。
質問はほとんど出ない。重要な意思決定も行われない。個別に調整が必要な案件は、結局、会議の後に担当者同士で話し合う。
参加者の多くは、この会議に意味がないと感じている。
それでも、会議は毎週開かれる。
主催者は、定例会議を開くことで、チーム全体の状況を把握しているという実感を得られる。問題が起きたときには、「会議で共有した」と説明できる。
管理職にとっては、部下が順番に報告する光景そのものが、組織を管理できている証拠に見えることもある。
参加者は、会議をなくしたほうがよいと思っている。しかし、自分から廃止を提案した後に情報共有の不足が起きれば、その責任を問われるかもしれない。
一時間黙って座っていれば、少なくとも自分だけが危険を引き受けることはない。
会社全体で見れば、十人が毎週一時間を失っている。一年を五十週とすれば、合計で五百時間になる。資料作成や日程調整まで含めれば、費やされる時間はさらに増える。
会議をなくしたほうが、全体の時間を節約できる。
それでも、個人ごとに見れば、会議を維持する理由がある。
主催者は、管理しているという実感を得られ、問題が起きたときには自分の責任を限定しやすくなる。参加者も、廃止を提案して危険を引き受けずに済む。
全体では非効率なのに、各人にとっては現状を維持するほうが安全である。
このように、よりよい状態があると分かっていても、集団が現在の規範や制度から抜け出せなくなることを、ここでは「規範ロックイン」と呼ぶことにする。
連載第1回では、人が他人の本音を誤認し、存在しない多数派へ従ってしまう「多元的無知」を扱った。
第2回では、規範に従う行動が規範への支持として受け取られ、「恥をかかせないため」という善意によって、その規範が次の人へ伝えられる仕組みを考えた。
しかし、規範が残る理由は、互いの本音を知らないことだけではない。
全員が無意味だと分かっていても、やめられない場合がある。
最終回では、社会全体の利益と個人の利益が食い違うことで、非効率な規範が固定される仕組みを考える。
多元的無知が解消されても、規範は消えない
多元的無知とは、自分はある規範を支持していないのに、ほかの人は支持していると思い込む状態である。
したがって、人々の本音を可視化できれば、規範が弱まる可能性がある。
会議の参加者全員へ匿名で尋ねた結果、九割が「不要だ」と答えたとする。
これで、「自分だけが無意味だと思っている」という誤解は解ける。
しかし、それだけで会議がなくなるとは限らない。
ほかの人も不要だと思っていることは分かった。それでも、誰が廃止を決めるのかは決まっていない。会議に代わる情報共有の方法も、廃止後に問題が起きた場合の責任の所在も明らかではない。
これらが決まらなければ、会議は残る。
ここで起きているのは、他人の本音についての無知ではない。
全員が現状の問題を理解している。それでも、一人だけ行動を変えると損をする可能性があるため、誰も最初に動けない。
これは、協調の失敗である。
多元的無知と協調失敗は似ているが、同じではない。
多元的無知では、他人の本音についての認識が間違っている。協調失敗では、他人の本音を知っていても、行動を一斉に変える仕組みがない。
前者は主に認識の問題であり、後者は行動の調整と責任配分の問題である。
非効率な規範が強固になるのは、この二つが重なったときである。
最初は誰も他人の本音を知らず、「皆はこの規範を支持している」と考える。
やがて、実は多くの人が疑問を持っていると分かる。しかし、その時点ではすでに制度や評価基準が規範を前提として作られており、一人では抜けられなくなっている。
誤解が解けても、誤解を前提に作られた仕組みは残るのである。
社会全体の利益と個人の利益は一致しない
規範ロックインの中心には、社会全体と個人のあいだの利益の不一致がある。
会議をなくせば全体の時間を節約できる。しかし主催者にとっては、会議をなくすことで、管理者としての役割が小さく見えるかもしれない。
承認手続きを簡略化すれば、組織全体の仕事は速くなる。しかし承認者にとって、自分の印や許可を不要にすることは、権限を手放すことにもなる。
長時間労働をやめれば、社員全体の負担は減る。しかし一人だけ早く帰れば、仕事への熱意が低いと評価される可能性がある。
形式的な贈答を一斉にやめれば、双方の費用と手間を減らせる。しかし自分だけ贈らなければ、相手との関係を軽視しているように見えるかもしれない。
浴衣の襟合わせを誰も問題にしなくなれば、間違いを気にする必要はなくなる。しかし、規範が残っているうちに自分だけ慣習から外れれば、着方を知らない人だと評価される可能性がある。
こうした場面では、規範に従う個人を単純に愚かだとは言えない。
規範自体に十分な意味がなくても、その規範を周囲が評価基準として使っている限り、個人にとっては従うことに実際の利益がある。
規範が正しいから従っているのではない。
規範が存在するために、従うことが合理的になっている。
ここに規範ロックインの厄介さがある。
規範そのものの合理性を否定しても、個人が従う理由までは消えない。
「くだらないのだから、気にせず破ればよい」と言うだけでは解決しない。一人だけ規範から離れる人に、社会的な損失が集中するからである。
規範を維持する人が得る私的報酬
非効率な規範が残るもう一つの理由は、規範を教え、監視し、取り締まる人にも利益が生じることだ。
ここでいう利益は、必ずしも金銭ではない。
人は規範を守り、他人へ教えることで、自分が正しい知識を持っていると確認できる。集団の一員として適切に振る舞っているという安心も得られる。秩序を守り、相手を助けたという満足を感じることもある。
浴衣の襟合わせを間違えた人へ声をかける行為にも、この構造がある。
声をかけた人は、本人が恥をかかないよう助けたと感じることができる。
さらに、その経験をXへ投稿すれば、「教えてくれてありがとう」「親切な人だ」「こういう知識は大切だ」といった反応を得られる可能性がある。
規範を教える行為が、正しさと善意の両方を示す機会になる。
ここで重要なのは、投稿者に悪意があるかどうかではない。
本人が心から親切のつもりであっても、その行為に心理的な報酬が伴う可能性はある。
SNSでは、その報酬の一部が、いいねや再投稿、表示回数、共感するコメントなどの数値や反応として見えるようになる。
社会的な反応によって発言が強化されれば、似た発言が繰り返されやすくなることは、SNS上の道徳的な怒りの表明を調べた研究でも報告されている。すべての注意喚起が同じ仕組みで生まれるわけではないが、反応を得られる発言が学習され、反復される可能性はある。
日常生活では一度の小さな親切だったものが、SNSでは多数の人へ向けた規範の伝達へ変わる。
規範を教えた人が承認を得れば、その反応を見た別の人も、同じ規範を教える動機を持つかもしれない。
SNSは既存の規範を単に映すだけでなく、規範を教え、違反を指摘する行為に報酬を与える装置にもなり得る。
正しさは安価な地位になる
規範についての知識には、もう一つの魅力がある。
比較的小さな負担で、正しい側へ立てることである。
高度な専門知識を身につけるには、長い学習が必要になる。困っている人を実際に助けるには、時間や労力がかかる。社会の難しい問題を解決しようとすれば、失敗の危険も引き受けなければならない。
しかし、襟合わせや名刺の扱い、冠婚葬祭の作法などは、決められた答えを覚えれば、正しい側と間違った側を明確に分けやすい。
間違いを見つければ、正しい答えを知っている側から他人を訂正できる。
この意味で、規範についての知識は、比較的安価に得られる地位として機能することがある。
規範を知っているだけで、教養や常識、配慮を備えた人として振る舞える。その一方で、知らない人は、無知で未熟な人や、失礼な人として位置づけられる。
しかし実際には、その規範が合理的かどうかを考えたとは限らない。既存の答えを記憶し、再生しているだけかもしれない。
それでも、規範が社会的に承認されている限り、答えを知っている人は「物事を分かっている人」のように見える。
思考を省略するための規範が、知性を示す道具に変わるのである。
この逆転は、規範をさらに強くする。
規範の合理性を疑う人よりも、規範上の正解を即座に答えられる人のほうが、「常識がある」と評価されやすいからである。
心理的報酬だけではない
規範の維持には、心理的な利益だけでなく、物質的、制度的な利益が結び付くこともある。
複雑なビジネスマナーが広く求められれば、それを教える研修や教材への需要が生まれる。資格要件が細かくなれば、試験や講座、認定制度を運営する仕事が生まれる。承認手続きが複雑であれば、承認を担当する役職や部署が必要になる。紙の申請が残れば、書類を受け取り、確認し、保管する業務も残る。
複雑な規範は、それを解釈し、教え、監督する人へ仕事や権限を与えることがある。
規範を簡素化すれば、社会全体の負担は減るかもしれない。
しかし、その規範を前提に作られた役割や収益を失う人も出てくる。
その人たちに、自主的な廃止だけを期待することは難しい。
もっとも、当事者が自分の利益だけを守ろうとしているとは限らない。「品質を守るため」「利用者を混乱させないため」「社会人として必要だから」「伝統を次世代へ残すため」と説明し、本人自身もそう信じている場合がある。
人は、自分の利益と一致する制度を、社会全体にとっても必要なものだと解釈することがある。
したがって、私的利益は、露骨な利権としてだけ現れるわけではない。
責任感や専門性、文化の保護と結び付いた状態で存在することもある。
規範から離れる人が負う私的損失
規範を維持する人には報酬が生じることがある。
一方で、規範から離れる人には損失が生じる。
この両方がそろうと、ロックインは強くなる。
会社の無意味な会議を廃止しようと提案すれば、「情報共有を軽視している」と思われるかもしれない。
過剰な承認手続きを省略した人は、問題が起きたときに責任を集中して負わされる可能性がある。
皆が残業している職場で先に帰れば、協調性や熱意がないと評価されるかもしれない。
形式的な贈答をやめれば、自分だけが関係を軽視しているように見える可能性がある。
浴衣の襟合わせを意図的に逆にすれば、本人は気にしていなくても、周囲から誤りとして指摘されるかもしれない。
そのため、合理的な個人であっても、その規範に意味があるとは思わないまま、自分一人が破ることで得られる利益よりも、不利益や面倒のほうが大きいと判断し、従い続けることになる。
この判断自体には合理性がある。
しかし、全員が同じ判断をすると、規範は残り続ける。
一人ひとりが自分の損失を避けた結果、全員が規範の維持費を負担する。
個人にとって合理的な行動が、集団にとって合理的な結果を生むとは限らないのである。
「全員がやめればよい」が実行できない理由
外から見れば、解決は簡単に思える。
全員が無意味だと思っているなら、全員でやめればよい。
しかし、その「全員で」が難しい。
最初に提案した人は、変更に伴う責任を負う可能性がある。ほかの人が本当に同意しているかも、事前には分からない。従来の規範を廃止した後に何を基準とするのかも決めなければならない。移行の途中で一部の人が古い規範を守り続ければ、双方のあいだに摩擦が生じる。
社会規範は、多数決で明確に制定されているとは限らない。
誰も正式に決めていないのに、皆が従っているものが多い。
そのため、廃止を決める権限を持つ主体も存在しない。
浴衣の襟合わせについて、社会全体へ「今後は左右を気にしない」と宣言できる人はいない。冠婚葬祭の作法にも、そのすべてを一括して廃止できる機関はない。
誰も決めていない規範は、誰か一人の判断では廃止できない。
各人が周囲の反応を見ながら従うことで存在しているからである。
このような規範は、中央から命令されている制度よりも、かえって壊しにくいことがある。
命令者がいれば、命令を撤回することができる。
しかし、相互の予測と監視によって維持される規範には、撤回する中心がない。
過去の選択が現在を縛る
規範ロックインには、過去からの積み重ねも関係する。
ある形式が長く続くと、その形式を前提に教育や制度、商品、評価基準が作られる。
すると、最初にその形式が選ばれた理由が失われても、周辺の仕組みが規範を支えるようになる。
会社の定例会議を前提として報告資料の様式が作られ、会議の開催実績が管理職の業務として評価される。さらに、会議で報告することが社内規程に書かれれば、会議を一つなくすためにも、資料の様式や評価制度、社内規程を変更しなければならない。
冠婚葬祭の作法を前提として、商品や解説書、研修、サービスが作られることもある。和装の着方を基準として、着付け教育や衣装制作、写真撮影の手順も整えられる。
過去の選択が、現在の変更費用を高くする。
現在の規範が優れているから残っているとは限らない。
長く残っていたために、変えるのが難しくなっている場合がある。
過去の出来事や選択が、その後に選べる道を狭め、現在の制度や行動へ影響を及ぼし続ける性質は「経路依存」と呼ばれる。
注意すべきなのは、規範の起源と現在の合理性を分けることである。
規範が始まったときに合理的な理由があったとしても、それが現在も必要であるとは限らない。
逆に、起源が恣意的だったとしても、現在は共通の形式として一定の便益を持っている可能性がある。
したがって、判断すべきなのは、昔なぜ始まったかだけではない。
現在どれほどの便益を生み、そのためにどれほどの維持費を払っているかである。
規範ロックインの維持費
非効率な規範が社会へ課す費用は、目立ちにくい。
一回の会議や一通の定型メール、一枚の書類にかかる時間は小さい。研修や服装確認、承認手続きも、一件ずつ見れば大きな負担には見えない。
だから、「その程度なら守ればよい」と言われる。
しかし、小さな規範が大量に積み重なると、社会全体では大きな費用になる。
会議へ参加し、形式を覚え、書類を作り、間違いがないか確認する。さらに、他人を指導し、逸脱を避け、形式をめぐる摩擦へ対処しなければならない。
その時間を別の仕事や生活に使えないという損失も生じる。
さらに、規範は人間の注意を奪う。
会議が開かれていることで、十分な情報共有が行われたように感じる。書類がそろっていることで、安全が確保されたように感じる。形式を守ることで、相手へ十分に配慮したように感じる。
しかし、形式を満たしたことと、目的を達成したことは同じではない。
本当に必要な情報が共有されたのか。危険が取り除かれたのか。弔意が伝わったのか。相手が快適に過ごせたのか。
それらを確認する代わりに、形式への適合だけを確認するようになることがある。
規範への服従が、目的を達成した証明として使われるのである。
その結果、社会は形式を維持する費用だけでなく、本来の目的を見失うことによる損失まで負うことになる。
規範を変えるには、個人の勇気だけでは足りない
非効率な規範を前にすると、「皆が勇気を持ってやめればよい」という結論になりやすい。
しかし、これは集団の問題を個人へ押し戻している。
一人だけ規範を破る人へ損失が集中する構造を残したまま、勇気だけを要求しても、規範は大きく変わらない。
必要なのは、その規範が何によって維持されているかを見極め、それに対応した方法で解除することである。
人々が互いの本音を誤認しているなら、その本音を可視化する必要がある。皆が本当は不要だと思っていると分かれば、存在しない多数派への服従は弱まる。
互いの意見が分かっていても誰も最初に動けないなら、集団で同時に変更する仕組みが必要になる。たとえば、会議への参加を各人の判断に任せるのではなく、組織として正式に廃止し、それに代わる情報共有の方法と責任の所在を定める。
規範から外れた人への非難が維持の中心なら、形式違反を人格評価へ結び付けないことが必要になる。形式を知らないことを、無礼さや人間性の欠陥として扱わなければ、逸脱の危険は小さくなる。
規範を取り締まることで承認を得られるなら、些細な形式違反を発見し、注意する行為を、無条件に教養や親切の証拠として評価しないことも必要になる。
また、規範の維持によって経済的、制度的な利益を得る人がいる場合には、その人たちの自主的な簡素化だけに期待することはできない。規範の維持による受益者と、変更を判断する主体を分ける必要がある。
日常的な小さな規範については、もっと静かな方法もある。
他人の形式を監視せず、実害のない間違いを見つけても訂正しない。自分が教えられた規範を、そのまま当然の知識として次の人へ渡さない。形式を知らないことを、人格の欠陥とみなさない。
規範へ正面から反抗しなくても、その再生産に参加しないことはできる。
どの規範を残し、どれを捨てるのか
規範が非効率かどうかは、古いか新しいかだけでは判断できない。
伝統的であっても、人々が楽しみ、美しさや共同体への帰属を感じているなら、そこには価値がある。
新しい規範であっても、監視や承認のためだけに人を拘束するなら、大きな損失を生むことがある。
判断するためには、まず、その規範がなければどのような害が生じるのかを考える必要がある。
その害が規範とは独立して存在するなら、規範には実害を防ぐ機能がある。皆が違反を気にしなくなっただけで問題も消えるなら、規範そのものが問題を作っている可能性が高い。
ただし、物理的な実害がないからといって、直ちに無価値だとは言えない。参加する人が美しさや楽しさ、所属感を実際に感じているなら、それも便益である。
そのうえで、その便益が、教育や監視、訂正、手続き、羞恥に伴う費用を上回っているかを確かめなければならない。
さらに、規範を維持することで利益を得る人と、規範から離れることで損失を負う人も見る必要がある。
皆が従っているのは、本当に支持しているからなのか。それとも、従わなければ不利益を受けるからなのか。
この違いを確認しなければ、慣習が存在しているという事実そのものを、慣習が必要であることの証拠にしてしまう。
長く続いたから正しい。多くの人が従うから必要である。知らなければ恥をかくから、次の人にも教えなければならない。
こうした循環を、どこかで断たなければならない。
誰も望んでいない常識を、誰が守っているのか
この連載は、浴衣の襟合わせをめぐる小さな投稿から始まった。
襟合わせを逆にしている人へ、声をかけるべきか。
本人がデート中なら、後になって恥をかくかもしれない。だから、今のうちに教えてあげたほうがよい。
そこには善意があった。
しかし、なぜ恥をかくのか。
多くの人が、襟合わせを本当に重大な問題だと考えているのだろうか。
それとも、それぞれが「ほかの人は気にするだろう」と思い、互いのために規範を教え合っているだけなのだろうか。
第1回で見たのは、他人の本音を誤認する多元的無知だった。
人は、自分ではそれほど重視していない規範でも、他人は重視していると思って従う。
その姿を見た他人は、従っている人が規範を支持していると誤解する。
こうして、実際には存在しない多数派が生まれることがある。
第2回で見たのは、善意と羞恥による規範の自己強化だった。
規範を知らなければ恥をかくとされる。そこで、相手が恥をかかないように規範を教える。
しかし、その教育によって、規範を知らなければ恥をかく社会が維持される。
規範は、自分が作った問題を解決するように見せながら、自分自身を再生産する。
そして今回見たのは、その規範が固定される仕組みである。
規範を教える人は、正しい知識を持ち、集団の秩序を守り、他人を助けたという感覚を得ることがある。規範を前提とする役割や制度から、権限や収益を得る人もいる。
一方で、規範から一人で離れる人には、無知で失礼な人、常識のない人と評価される危険がある。
社会全体では廃止したほうが得であっても、個人にとっては従うほうが安全になる。
その結果、全員が維持費を払い続ける。
誰も望んでいない常識は、誰か一人の命令だけで維持されているとは限らない。
私たちは互いの本音を誤解し、相手のためだと思って規範を教える。周囲から不利益を受けないように自分も従い、規範を教えることで小さな報酬を得ることもある。
その一つひとつは、個人の立場から見れば理解できる行動である。
しかし、それらが組み合わさると、集団全体は、誰も積極的には選んでいない状態へ閉じ込められる。
人間は、集団で生きるために慣習を作った。
慣習があれば、毎回すべてを最初から考え直す必要はない。共通の手順を使うことで、他人の行動を予測し、社会を効率よく動かすことができる。
しかし、省略された判断がいつまでも更新されず、過去の形式だけが残ることがある。
さらに、その形式を知っていることが正しさとなり、守ることが人格の評価となり、教えることが善意となる。
すると、思考を省略するための仕組みが、思考そのものを止める仕組みへ変わる。
だから私たちは、ときどき問い直さなければならない。
この規範は、今も何かを守っているのか。
それとも、規範が自分で作り出した問題を解決しているだけなのか。
規範を維持するための負担を誰が引き受け、そこから誰が利益を得ているのか。
皆が従っていることは、本当に皆が望んでいることなのか。
社会を変える最初の一歩は、すべての規範に反抗することではない。
自分が考えずに受け取った規範を、考えずに次の人へ渡さないことである。
意味のない規範は、守る人によってだけでなく、善意で教える人によって延命される。多くの人が、社会が、それを望んでいないとしても。
(了)
深水英一郎

小学生のとき真冬の釣り堀に続けて2回落ちたことがあります。釣れた魚の数より落ちた回数の方が多いです。
テクノロジーの発展によってわたしたち個人の創作活動の幅と深さがどういった過程をたどって拡がり、それが世の中にどんな変化をもたらすのか、ということについて興味があって文章を書いています。その延長で個人創作者をサポートする活動をおこなっています。