Wikipediaは、生成AI各社との間で、有償のデータ提供を行う枠組みを整えています。
運営主体であるウィキメディア財団は、「Wikimedia Enterprise」という商用向けのデータ提供プログラムを通じて、大量かつ継続的にWikipediaのコンテンツを利用する企業に対し、契約にもとづいた提供を行っています。

これは理念の話ではありません。
大量に、継続的に、商用で使われる以上、従来どおりの「すべて無料」という前提が成り立たなくなっている、という現実的な判断です。
では、日本最大級の文章プラットフォームであるnoteは、この状況をどう扱っているのでしょうか。
生成AIからnoteの記事が参照されていることについて、一般に前向きな意味合いで語られる場面があります。しかし、その参照が、誰の利益につながっているのかという点は、あまり整理されていません。
生成AIにとって、noteの記事は扱いやすい存在です。
無料で読めて、日本語で書かれた文章が大量にあり、更新頻度も高い。さらに、個人の思考や経験が一次的な形で記録されている点も、学習素材として都合の良い条件がそろっています。
一方で、書き手の側に目を向けると、多くの場合、目に見える変化はほとんど起きていません。
AIに参照されてもアクセスが増えるとは限らず、引用元として名前が示されることも多くありません。読者との関係が深まったり、収益につながったりするケースも限定的です。露出という言葉で説明されることはありますが、実態として価値が一方向に流れている構造に近いと言えます。
Wikipediaは、この構造を放置しませんでした。
個人が読む分には無料公開を維持しつつ、企業による高負荷・商用利用については対価を求める。その線引きを、交渉と契約によって明確にしました。
重要なのは、オープンであることと、無制限に無料で使わせることを切り分けた点です。
理想を掲げたまま状況を見送るのではなく、運営と利用実態の間に生じた不均衡を是正する判断が下されました。
では、なぜnoteは、この段階に進んでいないように見えるのでしょうか。
理由は、技術力や規模の問題というより、価値の定義が曖昧なままになっていることにあるように思えます。(もしかしたら、秘密裏に交渉が進んでいるのかもしれませんが)
noteは、有料記事やサブスクリプションを軸にしたプラットフォームです。
本来、価値は「誰が対価を支払ったか」によって測られます。しかし、生成AIからの参照は、その指標と結びついていません。読者が増えるわけでもなく、購入が発生するわけでもないからです。
それでも、生成AIに参照されていることが、影響力や評価のように語られることがあります。
ここで問われているのは、収益モデルの細部ではなく、価値をどう定義するかという判断そのものです。
もう一つ考えられるのは、交渉を始めた瞬間に生じる責任を避けている可能性です。
条件を定義すれば説明が必要になりますし、線を引けば不満の声も出ます。しかし、それはプラットフォームを運営する側が本来引き受けるべき役割でもあります。
このままの状態が続けば、価値が外へ流れ続けます。
AIにとっては学習素材の供給源であり、noteにとっては「参照されている」という事実だけが残ります。そして、書き手の日常は、何も変わらないままです。
参照されること自体に、価値が自動的に生まれるわけではありません。
価値が生まれるのは、誰が、どの条件で、何のために使っているのかが定義されたときです。
Wikipediaは実際に交渉しましたがnoteはまだ条件を示していません。
この差は、能力の差ではありません。選択の差です。
その選択によって映し出されるのは、プラットフォームの思想そのものです。
(了)
参考

小学生のとき真冬の釣り堀に続けて2回落ちたことがあります。釣れた魚の数より落ちた回数の方が多いです。
テクノロジーの発展によってわたしたち個人の創作活動の幅と深さがどういった過程をたどって拡がり、それが世の中にどんな変化をもたらすのか、ということについて興味があって文章を書いています。その延長で個人創作者をサポートする活動をおこなっています。