自民党とは——期待ではなくあまりにも日本人的な「諦め」の結晶

2025年のM-1決勝で、ドンデコルテの漫才にこんな一言があった。

「自民党はありません!」

会場は大爆笑に包まれた。説明は不要だった。理由も背景も語られないその一言が、観客の感情に正確に刺さったからだ。

誰もが薄々感じている違和感。
口に出すほどではないが、胸の奥に溜まっているモヤモヤ。
それを、あまりにも短く、あまりにも直接的に言語化した瞬間だった。

だから共感と共に大きな笑いが起きた。

  *

自民党が選ばれ続ける理由を「支持」と呼ぶのは、やはり無理がある。そこにあるのは期待ではない。もっと静かで、もっと日本的な感情──諦めだ。

選挙直前に持ち出される、食料品限定の消費税減税。時限措置で、制度設計は粗く、実施は選挙後。冷静に見れば、あまりにも露骨な選挙対策だ。

多くの有権者はそれを理解している。理解したうえで、なお票を入れる。

ここに、日本政治の核心がある。

有権者は騙されているのではない。納得していないが、拒否もしない。怒っているが、賭けには出ない。

  *

そう、自民党は「良い政党」だから残っているのではない。「これ以上ひどくならなそう」という、消極的な条件を満たしているだけの存在だ。

それは信頼ではなく、既知の不完全さへの慣れである。

重要なのは、これは無関心の結果ではないという点だ。むしろ逆だ。政治を見続け、失望を重ね、期待することに疲れた結果である。

野党が分裂し、理想を語り、しかし統治の像を示せないかぎり、有権者は変化よりも摩擦の少なさを選ぶ。改革は希望ではなく、リスクとして認識される。

この構図の中で、消費税減税は政策ではない。政治的な免罪符だ。「何もしないわけではない」という態度を示すための、小さな儀式にすぎない。

だからこの話は、「自民党が悪い」「野党がだらしない」で終わらせてはいけない。それらは結果であって、原因ではない。原因はもっと深いところにある。

期待すると傷つく。

諦めれば、傷は浅い。

この合理的な感情が、民主主義の選択として定着してしまったことだ。

自民党は、いまの日本社会が選んだ、もっとも摩擦の少ない政治の形である。他に選択肢がないから選ばれている。

だからこそ、
「自民党はありません!」
という言葉に、あれほどの爆笑が起きたのだ。


(了)

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